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2012年7月9日月曜日

歴史の捏造

昨日「ラベリング」と言っておいて話が違うではないか,と思われた方もいるかもしれない(連続して読んでくれている方,ありがとうございます!).
しかし,僕は歴史の捏造というものは,「先入観」や「ラベリング」によって起こるものだ,ということが言えるのではないか,と考えているのだ.
今日は,二つの例をもとにして,これを話したいと思う.
ひとつは,「ルワンダにおける虐殺」で,もう一つは「ギリシャ古代彫刻」の例である.


ルワンダにおける虐殺については,ルワンダの教育大臣と大使の講演を聞く機会があり,その時に勉強したのだけれども,それが報じられた当時,原因となっているのは「フツ族」と「ツチ族」の対立とだ言われていた.しかし,この「民族」同士には本質的差異はなく(遺伝的な差異も認められないという),むしろ「政治的立場」や「生業」によってベルギーなどによる「植民地支配」のやりやすさのために分割されたとされる.植民地経営においては,「フツ」と「ツチ」という民族は別のものである,というような教育がなされたという.

これは「ハム仮説」に基づいているが,ハム仮説は優生学的な考え方に基づいている.
また,この「ハム」というのは創世記におけるノアの3人の息子のうちの一人である.残り2人はセム,ヤペテである.

優生学の根拠の無さについては機会があれば触れることにしたい.

この虐殺は1994年に起こったもので,100日足らずのうちに50万人以上が殺された,というもの.映画「ホテル・ルワンダ」では「ゴキブリどもを殺せ!」などとラジオががなりたてていたのが印象的だった.(いや見るべきところはそこじゃないと思うけれど
殺害されたほとんどが「ツチ」だったといいますが,フツの人たちもいて,「民族対立」というよりはむしろ「政治的対立」が民族対立というラベルで「上塗りされた」ものだと考えることができる.


話が大分それたけれども,ラベルの話としては,「フツ」と「ツチ」の話で,「与えられたラベル」に「従う」ということがありえる,という話をしたくて,この話をしたのであった.


次に,与えられたラベル,という見方で,「大英博物館におけるギリシャ彫刻の改竄事件」を見ていきたいと思う.
本当はルワンダの話をラベリングに「絡めて」する予定だったのだが,それを練っていた時に,NHKスペシャルが背後でやっていて,その内容に寄ろう,と考えたのであった.
内容に関しては参考4を当たってほしい.
簡単に書く.

かつて,ギリシャ芸術はエジプトや西アジアの影響を受けていたことが知られていたという.
しかし,古代ギリシャ芸術に関してWinckelmannは1700年代に「ギリシャ芸術は人類が到達した最高の美」であり,「ヨーロッパの目指すべきはギリシャの模倣である」とした.
その考えは,19世紀にヨーロッパに訪れた古代芸術ブームに対して,ギリシャ芸術が「白い文明で」「純粋で高度なものだ」というイメージを与えたという.
そんな中,古代ギリシャは西洋に権威を与える格好の存在で,ヨーロッパのルーツとして設定され,そう教育されたという.
また,ヨーロッパ(特に英国)では,ヴィクトリア女王のウェディングドレスによって「白」ブームがおき,ギリシャは「純粋」「白」の象徴的存在とみなされるようになったという.

1938年に大英博物館のスポンサーだったDuveen卿は,ギリシャから持ってこられた大理石の彫像(エルギン・マーブル)を,作業員に銅へらなどを用いて「磨かせた」という.この結果,彫像は(くすんだ色の)表面が削られ,彫刻は白くなめらかになったという.表面には「浮き彫り」があったにもかかわらず,それは失われたとも.
これは,観客の「ギリシャは白いものだ」という考えに迎合し,その望むものを作らせたと言われる.
しかし,実はギリシャの芸術は,むしろ色がふんだんに使われており,ギリシャ人は大理石をキャンパスに用いていたということが「(再)発見」されてきている….

という内容だった.
番組における論理の順番は逆だったりするけれども.
ともかく,「ギリシャは白い」というラベルに対して,現実を曲げて「そうである」と言ったことが(博物館でさえ!)あった,という事実には,とても興味深く見入ったのだった.


以上二つを見てきたが,「歴史」は「ラベル」によって改竄可能である,ということが言えるのではないか.
「ラベリング」は「中身」の性質を変えることもあるのか,たとえば「血液型」などというものに対して作用するか,という話もできるかと思うが,また後の機会があれば,しよう.
「バイアス」なども十分に関わってくるだろう.


・ジェノサイドはいじめと通じるところがあると思う.もうちょっと知りたい.
・RPFって物理の人が言うとRichard P. Feynmanなのよね…


参考
1.ルワンダの紛争とエスニシティ
2.ルワンダの虐殺から考える 東京大学学術俯瞰講義 2007.6.19 - 武内進一
3.NHKスペシャル - 知られざる大英博物館 第2集 古代ギリシャ "白い"文明の真実
4.西 村 洋 子 の 雑 記 帳 (16)
5.British damage to Elgin marbles 'irreparable' - Helena Smith / The Guardian 1999/11/12
6.Elgin Marbles - Wikipedia

2012年7月8日日曜日

「公平である」ことについて

科学において,「合理的」で「公平な」判断をする,というのは非常に重要なことである.
ところが,それはむずかしいんだよ,ということが言われる.
バイアス,というやつである.

バイアスの研究は,TverskyとKahnemanによって,多くなされている.
彼らの前には,「合理的選択の理論」というのがあった.

ここに書いてある議論の多くは,伊勢田哲治「疑似科学と科学の哲学」から引用している.



バイアスについて,まずは,「典型的なものの頻度を実際以上に評価してしまう」という代表性バイアスがある.
例として,賭博師の誤謬というものがあげられる.
ルーレットにおいて10回赤が出続けた時に,「次は黒が出る可能性のほうが高い」と思う,というようなものだ.
もちろん,ルーレットにおいては一回一回同じ確率で,「赤」と「黒」が出る.「赤ばかりの配列」よりも「赤と黒が混じった」配列のほうがより典型的であるためにこのような思い込みが起こる.


次に,「すぐ思いつくもの,目に付くものの頻度を実際より高く評価する」利用可能性バイアスがある.
たとえば,英単語のうち,rという文字が1文字目に来るものと,3文字目に来るものはどちらのほうが多いだろうか.
Kahnemanらの研究によると,1文字目,と答える人のほうが多かった.


オペラント条件づけ」と「迷信的思考」は関係している.
お守り,とかゲン担ぎ,とかがこれに当たる.
ハトやマウスにおいて,餌を与える際に動物ののある行動と関連付けて与えると,その動物はその行動を繰り返し行うようになる.この行動は(餌においてではないが)人間でも観察されている.
人間の場合,これに不確定要素を導入したときに(確率的変動など),迷信的連関付けが行われることがわかっている.


基礎比率の無視
これを説明するには,「感染者問題」と呼ばれる問題がある.
以下のようなものだ.
「乳がんの発症率は1%である.患者が乳がんを患っている場合,検査で陽性反応が出る確率は80%である.患っていない場合,陽性反応が出る確率は,10%である.このとき,検査で陽性反応が出た時に,患者が乳がんを患っている確率はどのくらいだろうか?」
ベイズ定理に基づけば,この確率は,
$$\frac{0.01 \times 0.80}{0.01 \times 0.80 + 0.99 \times 0.10} = 0.074$$
となり,約7.5%である.
Eddy(1982)の研究によれば,多くの実験協力者の直感的判断は,75%前後になる.
これは,「条件付き確率」80%に引きずられているためだと考えられる.
この際に,「基礎比率」である「乳がんを患っている」1%を無視してしまうのである.


「今持っている仮説に都合の良い証拠を探したがる」という検証バイアスというものもある.被験者に曖昧さの残る証拠を与えたとき,被験者が念頭に置いている仮説と一致するものはあまり吟味されずに受け入れるが,仮説と矛盾する証拠は厳しく吟味する,というものである.


また,他人の影響もあり,Aschの同調実験という実験でそれが確かめられている.自分以外のすべての被験者が(サクラ)誤った答えを一致して言うと,その答えに引きずられる,ということが知られている.


このように,多くの要因が,公平な判断を阻害していることが理解できるかと思う.


あすは,「ラベリングについて」再考したいと思う.
いつの間にかまた$$LaTeX$$が使えなくなっている…かなしい.
デザインを一新したからなのだろうなぁ…ヘッダに入れてたんだっけ…

--
参考
疑似科学と科学の哲学
確率を用いた推論課題における回答方略の検討

2011年10月16日日曜日

伊勢田哲治 「疑似科学と科学の哲学」

友人に借りて、この本を読んだ。
読み方としては、懐疑的な読み方ではなく、ふんふん、という程度だが。


疑似科学と科学の哲学


本の内容は、以下のようであった。

「科学とは何者であるか」というのを研究するのが科学哲学であるが、その科学の性質を「科学なようで科学でない」疑似科学(えせかがく、ではないよ。えせは「似非」と書きますよ念の為)との比較によってあぶり出そう、というのがこの本の主題である。この「科学と疑似科学をいかにして分けるか」という問題を「線引き問題」という。

この本では、まず「昔は科学の一部であった」創造科学(創造が神によって行われ、その後洪水が起きて…という聖書の文言を基本的に正しいとするもの)や、「占星術」などを引き合いに出して、これらの論理にどのような「ずるさ」があるのか(我々は、これを主張する者たちに一種のずるさを感じているはずだ)、ということを議論し、帰納主義、反証主義、方法論的反証主義、還元主義、パラダイム論について書き、過小決定の問題(観察によって仮説が検証されないという問題)、理論負荷性の問題について、語っている。

科学哲学を学んだのははじめてだが、この中では特に、反証主義とパラダイム論は科学哲学の発展に多くの寄与をしたのだろうと思われる。パラダイム論の所で、クーンのパラダイム選択にあたっての基準として
1.実験や観察との一致
2.内部の無矛盾性および確立されたほかの理論との無矛盾性
3.応用範囲の広さ
4.単純性(オッカムの剃刀)
5.豊穣性(それによって何らかの新しい側面が見えてくるか?)
をあげている。

その後、リサーチプログラム論、リサーチトラディション論が派生してくるということが述べられている。


また、「実在」について、「電子なるものの存在」と、「超能力の存在」を引き合いに、科学理論においてその対象が存在するのか? という問題を問うている。
ここで出てくるのが、科学的実在論、奇跡論法(そういえば田崎先生は奇跡論法の使い手だった気がする)、懐疑主義、悲観的帰納法で、また反実在論として、操作主義、道具主義、構成的経験主義がある。
この後者の反実在論たち、僕は意外と好きだ。
とくに、構成的経験主義はいいと思う。ただ、その現象名をたとえば「電子の~」と呼ぶことも全然ありだと思う。

そういえば、田崎先生の「統計力学I」を読み始めたのだが、その中で、オストヴァルトが分子の実在を信用していく様子が書かれていた。それもまた面白い。


さらに本は代替医療へと進み、マートン流科学社会学、アナーキズム、相対主義を議論する。相対主義にもやはり批判はあり、これへの批判が展開される。

そして話は統計、特にベイズ統計をほぼ文字だけで(なんてこった)語り、最後に、筆者が「線引き問題」について語って終わる。


(線引き問題について)この考えはあった、という意味で、最後の文に、ちょっぴり感動したのであった。
もう一度読んで新たな発見をしないと、とも思うが、そろそろ返さなければならない。
輪講は、してもいいね。


*****

ということで、そろそろ返すよこの本。ちょっとぼろぼろかもだけど。
いや、新しいのを買って君に渡したほうがいいのなら、そうする。

まあ、夜も更けてきましたな。
友人の予言通り、ブログは書き上げました。
でもその先予言通りにならないよう、早く起きたいと思います。


久しぶりの更新でした。