今日は,日中をつかって江戸東京博物館において行われていた,「発掘された日本列島2012」に行ってきた.
全国で発掘された様々な遺跡の調査結果を展示してあるのだが,それぞれの遺跡でやはりいろいろなストーリィがあって,面白かった.
遺跡の醍醐味ってやはり,想像できるところだと思うのです,
展示の仕方も,あとでどこかに写真をあげるけれども,一工夫あって,面白かったです.
それを見つつ,今朝海外との会話で「演出」について会話したことを思い出していました.
いや,はじまりが「おはよう」と「こんにちは」と「こんばんは」だったんだけれど.
それがちょっとたのしかった←
で,まとめもクソもないんだけれども,僕がそこで「発見」したこと(もしかしたら自明なんだけれども)があるのだ.
それは,「演出」には「意味」と「形式」があるっていうこと.
モノから「意味」を抽出してくるのが演出だと僕は思っているのだけれども,そのときに与える「構造」があって,それは「形式」だなぁ,と気づいたのだ.
今日の博物館で言うと,やっぱり博物館,あるいは主催者,キュレータ,学芸員の「見せたいもの」というのがあって,それが前面に出てくるように「なっている」.
たとえば,一つだけ台においてあるとか,
背景の色が変えてあるとか.
他にもあるのだろうけれども.
それはとってもすごいことだなぁ,と思う.
設計され尽くした空間として博物館を見る,ということをはじめてやって,もっと知っていきたいな,などと思ったのであった.
ただ,それは「あるところ」を「語りたい」のであって,「新規の発見」をさらにそこからしたいわけではなく,それは現場で行われることであって,もっと「臨場感」があると面白いかなぁ,と演出とはカンケイないことも思ったりして.
歴史に思いを馳せることができて,今日は満足.
常設展示をみることができなかったので,今度はしっかり見たいなぁ.
…と今日は日記のような軽い文章で.
最近blogサボリ気味ですね.
がんばりましょう.
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昔の人がなにを考えながら生きていたのかって,知りたいよね.
いつから「生きる意味」とか考えるようになったのだろうね.
それに必要な要素とは…!
2012年7月29日日曜日
2012年7月23日月曜日
Mr.ビーンと,束縛のある社会
今日は軽めに.
Mr.ビーンが受ける,という事実とその考察をちょびっとだけ.
Mr.ビーンの幾つかのストーリィを,かつて見たことがある.
彼のやっていることは,(子供の頃)誰もがやりたい,と思ったことではないだろうか.
「自由」というものの具現者である,とも言えるだろう.
その「自由」の「失敗」を見せることで,「普通」の人に対して「笑い」を提供しているのだろう,と僕は考えた.
近代における世間の人々は,自らの周りに自由を作らず,あるいは作れず,束縛されている.
Mr.ビーンは「自己中心的」で,その束縛を解き(むしろ感じておらず),自由であるのだ.
何から自由かというと,たとえば「法律」,「常識」,「タブー」,「慣習」だったりする.
人々の,潜在的に抱いている,「そうでありたい」,「そうしたい」という思いを実現し,「自由でないもの」の存在に対して疑問を投げかけるとともに,それが失敗する事によって,「束縛」の正当化へと,「落とす」のだ.
…一般には.
それによって,「多くの共感」を得るのだと考えられる.
しかし,「自由」を中心にして考えると,それはちょっと変わってくるのではないか.
「自由であること」は「失敗に対して責任を負う」ということにほかならない.
Mr.ビーンは,いくつも失敗をしているが,「それでも自由を貫く」という姿勢を崩さない.
あの人に「常識」があれば,すごい苦闘なんだろうなぁ.と思いつつ.
役者自身は,すごい葛藤を感じている,という気はする.
「束縛されること」は確かに楽であり,それは世の中の大半を占めている.
しかし,「僕にとって」その「束縛」された状態って本当に望んでいるものだっけ,と「僕は」あらためてはっとさせられたのであった.
ただ,あそこまでのことをしようと思っているわけではない:念のためw
Mr.ビーンの生い立ちとか,背景があるなら知りたいですな.
なんとなくそういうことを感じたのでつらつらと.
Mr.ビーンが受ける,という事実とその考察をちょびっとだけ.
Mr.ビーンの幾つかのストーリィを,かつて見たことがある.
彼のやっていることは,(子供の頃)誰もがやりたい,と思ったことではないだろうか.
「自由」というものの具現者である,とも言えるだろう.
その「自由」の「失敗」を見せることで,「普通」の人に対して「笑い」を提供しているのだろう,と僕は考えた.
近代における世間の人々は,自らの周りに自由を作らず,あるいは作れず,束縛されている.
Mr.ビーンは「自己中心的」で,その束縛を解き(むしろ感じておらず),自由であるのだ.
何から自由かというと,たとえば「法律」,「常識」,「タブー」,「慣習」だったりする.
人々の,潜在的に抱いている,「そうでありたい」,「そうしたい」という思いを実現し,「自由でないもの」の存在に対して疑問を投げかけるとともに,それが失敗する事によって,「束縛」の正当化へと,「落とす」のだ.
…一般には.
それによって,「多くの共感」を得るのだと考えられる.
しかし,「自由」を中心にして考えると,それはちょっと変わってくるのではないか.
「自由であること」は「失敗に対して責任を負う」ということにほかならない.
Mr.ビーンは,いくつも失敗をしているが,「それでも自由を貫く」という姿勢を崩さない.
あの人に「常識」があれば,すごい苦闘なんだろうなぁ.と思いつつ.
役者自身は,すごい葛藤を感じている,という気はする.
「束縛されること」は確かに楽であり,それは世の中の大半を占めている.
しかし,「僕にとって」その「束縛」された状態って本当に望んでいるものだっけ,と「僕は」あらためてはっとさせられたのであった.
ただ,あそこまでのことをしようと思っているわけではない:念のためw
Mr.ビーンの生い立ちとか,背景があるなら知りたいですな.
なんとなくそういうことを感じたのでつらつらと.
2012年7月11日水曜日
演出の基本的思想
演出に対して,いま,基本的な立場を明確にしておきたいと僕は思った.
自明のことかもしれないが,ただの呟きであると思って欲しい.
すべての演出は,「わかりやすさ」なのだろう,と今のところ僕は考えている.
そのためのの手法として,「視線誘導」だったり,「理解しやすい構図」「時間的変化」があったりする.
他にも,レンズを変えるとか,パンとか,いろいろある.
逆に,「わかりにくい」ということを利用する演出もある.
それはたとえば,「敵」,「仲間でない」,「対立の構図」を生み出すものなのであろう.
と,思っている.
では「予感」などはどのように表現するだろうか.
「象徴物」に「時間」を付与するものであろうか.
具体的手法についてはこれからいくつも研究していくと思うが,いまのところこんなかんじのことをもやっとふわっと考えているのである.
演出は「シナリオ」に付随するものであり,シナリオは「目的」に付随するものである.
目的をもとに,シナリオを組み上げ,演出する.
これが理想だな,と考えている.
いままでごっちゃにやってきた気がする.
これをちゃんと構成してみたい.
スタンリィ・キューブリックの2001: A Space Odysseyを見始めた.
ちょっとずつ研究していきたい.
25分までセリフがなくて,これはすごいと感じた.
「把握」できているから,「演出」は適切なのだろうな,ということである.
「言葉」に頼らない演出こそが,最終的な理解を助けると僕は考えているので,これはとてもすごいものだ,と思う.
「記号」というものはキィワードのひとつになっていくのだろうな,と思う.
記号に付与される「意味」.
わざわざ「記号」にすることによって,「大雑把な」共通理解を得るようにする.
ということではないか.
記号は,「音」や「音楽」でもありえる.
実は「単語」でもありではあるのかも.
演出に携わると,このかんがえが変わっていくだろうか.
楽しみである.
疲れているので,こんなかんじでまたお茶を濁すことにする.
自明のことかもしれないが,ただの呟きであると思って欲しい.
すべての演出は,「わかりやすさ」なのだろう,と今のところ僕は考えている.
そのためのの手法として,「視線誘導」だったり,「理解しやすい構図」「時間的変化」があったりする.
他にも,レンズを変えるとか,パンとか,いろいろある.
逆に,「わかりにくい」ということを利用する演出もある.
それはたとえば,「敵」,「仲間でない」,「対立の構図」を生み出すものなのであろう.
と,思っている.
では「予感」などはどのように表現するだろうか.
「象徴物」に「時間」を付与するものであろうか.
具体的手法についてはこれからいくつも研究していくと思うが,いまのところこんなかんじのことをもやっとふわっと考えているのである.
演出は「シナリオ」に付随するものであり,シナリオは「目的」に付随するものである.
目的をもとに,シナリオを組み上げ,演出する.
これが理想だな,と考えている.
いままでごっちゃにやってきた気がする.
これをちゃんと構成してみたい.
スタンリィ・キューブリックの2001: A Space Odysseyを見始めた.
ちょっとずつ研究していきたい.
25分までセリフがなくて,これはすごいと感じた.
「把握」できているから,「演出」は適切なのだろうな,ということである.
「言葉」に頼らない演出こそが,最終的な理解を助けると僕は考えているので,これはとてもすごいものだ,と思う.
「記号」というものはキィワードのひとつになっていくのだろうな,と思う.
記号に付与される「意味」.
わざわざ「記号」にすることによって,「大雑把な」共通理解を得るようにする.
ということではないか.
記号は,「音」や「音楽」でもありえる.
実は「単語」でもありではあるのかも.
演出に携わると,このかんがえが変わっていくだろうか.
楽しみである.
疲れているので,こんなかんじでまたお茶を濁すことにする.
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