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2012年7月23日月曜日

Mr.ビーンと,束縛のある社会

今日は軽めに.
Mr.ビーンが受ける,という事実とその考察をちょびっとだけ.


Mr.ビーンの幾つかのストーリィを,かつて見たことがある.
彼のやっていることは,(子供の頃)誰もがやりたい,と思ったことではないだろうか.
「自由」というものの具現者である,とも言えるだろう.

その「自由」の「失敗」を見せることで,「普通」の人に対して「笑い」を提供しているのだろう,と僕は考えた.

近代における世間の人々は,自らの周りに自由を作らず,あるいは作れず,束縛されている.

Mr.ビーンは「自己中心的」で,その束縛を解き(むしろ感じておらず),自由であるのだ.

何から自由かというと,たとえば「法律」,「常識」,「タブー」,「慣習」だったりする.
人々の,潜在的に抱いている,「そうでありたい」,「そうしたい」という思いを実現し,「自由でないもの」の存在に対して疑問を投げかけるとともに,それが失敗する事によって,「束縛」の正当化へと,「落とす」のだ.


…一般には.
それによって,「多くの共感」を得るのだと考えられる.


しかし,「自由」を中心にして考えると,それはちょっと変わってくるのではないか.
「自由であること」は「失敗に対して責任を負う」ということにほかならない.
Mr.ビーンは,いくつも失敗をしているが,「それでも自由を貫く」という姿勢を崩さない.

あの人に「常識」があれば,すごい苦闘なんだろうなぁ.と思いつつ.
役者自身は,すごい葛藤を感じている,という気はする.

「束縛されること」は確かに楽であり,それは世の中の大半を占めている.
しかし,「僕にとって」その「束縛」された状態って本当に望んでいるものだっけ,と「僕は」あらためてはっとさせられたのであった.
ただ,あそこまでのことをしようと思っているわけではない:念のためw

Mr.ビーンの生い立ちとか,背景があるなら知りたいですな.


なんとなくそういうことを感じたのでつらつらと.

2012年7月14日土曜日

逮捕されたらすべきことを考えたい.そのいち.

僕は逮捕されたことがないのでわからないけれど,先日冤罪について考えたときから書きたいと考えていた.

冤罪ってどのように免れるべきなのだろうか.
ということである.
痴漢冤罪は近年話題になっているが,僕は冤罪一般について考えてみたい.


すべきことを後回しに,まず妄想から.

警察の他に,弁護士らと共同して「被疑者の無実を証明するために動く」国家機関があってもいいのかな,と思う.すべての事件について捜査を行い,その調査結果を提出する.

これはバイアスによる冤罪を防止するだろうし,犯罪率も実は減るのではないか,と見ている.
しかし,のちに述べるように「証拠」はそれを阻むのだろうと考えられる.
ので,もう一つ「証拠の管理」を行う図書館のようなところを作るべきだとも考える.
裁判所付属,になるでしょうか.


さて,タイトルが「考えたい」なのは,まだ「すべきこと」に至らないからである.
今回は,「すべきこと」について考えるために,その背景を描き出してみたい.
多分シリーズ物になるが,定期連載ではなさそう.

日本での冤罪の可能性って殆どの人は意識していないのではないか,と思う.
そもそも,「逮捕されたら有罪」という考え方はずっとはびこっているのではないか.


まず今日は,「バイアスの存在」について意識しておきたい.
巷で「逮捕=有罪」の意識があるように,警察にもそういう意識があるとかんがえられる.

それは,逮捕までの作業が「証拠を固めること」であるからだ.
逮捕状の請求は「適切な証拠」のもとで行われ,裁判官の判断によって逮捕状が出され,逮捕が行われることになっているということも理由にあげてもいい.

逮捕した時には,「後はおとすだけ」という意識があるのではないか,と僕は仮説する.


同じバイアスについて言うと,裁判官においてもそうであって,裁判官は中立であろうとしているけれども,ニュースを見ないわけではない.
そのニュースにおいて,「犯人」視している報道に偏っている場合,それに判断が引きずられるということは否定できないと僕は考えている.


警察,検事においてのバイアスはさらに裁判にも持ち込まれる.
「最良証拠主義」というものがある.

警察→検察→裁判所
への証拠提出は最良の証拠のみとする,というものだ.

しかしながら,被疑者/被告人にとって有利な証拠も警察/検察により収集・保管されるわけで,その公開がなされないというのはなかなかに皮肉である.
というのも,戦後刑事訴訟法の証拠法は被疑者/被告人のために制定されたはずであるからである…
多くの再審においては,不提出証拠が提出されるために無罪になることが多いという.


この最良証拠主義はどうして出来たものかちょっと調べてみたのだが,みつからなかった.
教えてもらいたいものである.(裁判時間の短縮のため,と書いてあるところは多かったが)



今回は,捜査側,中立であるはずの裁判所における被疑者不利なバイアスの存在について見てきた.
被疑者に有利なことはないだろうか? というのは探していきたい.


次回は,「閉じ込められること」と「脅しの構造」について,だろうか…まだ考えていない.

2012年7月4日水曜日

「レールから外れて」生きるために

もくじ
「レールから外れた」ヒトとして
「ラベリング」は単純化
単純化と「レール」の関係
もっと「複雑なラベリング」を!

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「レールから外れた」ヒトとして
高校までは,あるレールに乗ってきた.
それは,たとえば「私立の中高一貫校で,エスカレータ」というものであったりする.

ところが,受験期に僕は大きな決断をする.
それまでやってきたものを脱ぎ捨て,ブツリなどという奇っ怪極まりないものに手を出すことにしたのだ.
それが,たしか,試験が直前に迫っていた11月だったと思う.

数学は,苦手です.よって物理も苦手です.

その結果として,成績をぽろんぽろんと落としている自分がいるわけだ.
そのまま卒業できないかもしれない,なんて言われている.
そもそも出席が危ういとか.自業自得.

べつに自分の身の上話がしたかったわけではない.
ただ,「レールから外れている立場」のひとが書いてますよ,と主張したかっただけである.
ま,それほど外れているとも言えないのが苦しいけれど.


「ラベリング」は単純化
さて.
最近,「ラベリング」することについて,疑問を感じている.
たとえば,「ゆとり」とか,「老害」とか.
主に否定的ニュアンスを思いつくことができる.

ところが,実際話してみると,「ゆとり世代」であっても「一人ひとり」は違うし,もちろんご老人もそうである.
それは自明のこと…といってもいい…ですよね.

それを一人ひとりについて見ていくと,面倒くさい事この上ないはずで,それを「単純化」するために,「ラベリング」「タグづけ」と呼ばれる操作をするのである.

「値段」とか,「得点」とか,そういうのも「ラベル」の一つに入る.
しかし,「一つのラベル」に頼ると,大変なことが起こる.
たとえば,留年生(過年度生,というらしい)は全員サボっているのだろうか.
若者は全員オタクで全員不良だったりするのだろうか.

僕は,この「ラベリング」について,ヒトコト言いたいことがあるのだ.


単純化と「レール」の関係
さて,上のような内容が「レールから外れる」という話とどう絡んでいくのか.
そもそも,その人はなぜレールからはずれたか,というと,画一的な処理からはじき出されたからであって,画一的な処理はある一つの,あるいは少数のラベリングによって行われることが多い.
たとえば,「テストの点数」なんてラベリングの最たるものではないか.


もっと「複雑なラベリング」を!
「一つのラベルに頼ること」の危険性は,さっき述べた.
理想的には,ラベルなんてなく,ただ「そのもの」を認識する,というのがいいのだろうが,我々の認識の仕組みとして,おそらく不可能ではないか,と思える.「ラベルを多く貼る」というのが現実的な解ではないだろうか.

最近は,ビッグデータの時代と言われる.
ビッグデータは,たとえばamazonのような,「顧客の情報」を収集し,整理し,その上で顧客にフィードバックする,というようなところに使われる.
そのビッグデータとして,多くのラベルを使い,そして人やモノゴトを「評価」できないか,という考えを表明して,今日のところは終える.


「評価すること」,「バイアス」,「ラベルの時間変化」についてはまた考察したいと思う.
この問題に付随するものとして,「政党政治」,「リスクマネジメント」などがあるだろう.「評価」をする部分だ.