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2012年7月29日日曜日

演出の構造と博物館

今日は,日中をつかって江戸東京博物館において行われていた,「発掘された日本列島2012」に行ってきた.


全国で発掘された様々な遺跡の調査結果を展示してあるのだが,それぞれの遺跡でやはりいろいろなストーリィがあって,面白かった.
遺跡の醍醐味ってやはり,想像できるところだと思うのです,

展示の仕方も,あとでどこかに写真をあげるけれども,一工夫あって,面白かったです.


それを見つつ,今朝海外との会話で「演出」について会話したことを思い出していました.

いや,はじまりが「おはよう」と「こんにちは」と「こんばんは」だったんだけれど.
それがちょっとたのしかった←

で,まとめもクソもないんだけれども,僕がそこで「発見」したこと(もしかしたら自明なんだけれども)があるのだ.
それは,「演出」には「意味」と「形式」があるっていうこと.

モノから「意味」を抽出してくるのが演出だと僕は思っているのだけれども,そのときに与える「構造」があって,それは「形式」だなぁ,と気づいたのだ.


今日の博物館で言うと,やっぱり博物館,あるいは主催者,キュレータ,学芸員の「見せたいもの」というのがあって,それが前面に出てくるように「なっている」.

たとえば,一つだけ台においてあるとか,
背景の色が変えてあるとか.
他にもあるのだろうけれども.

それはとってもすごいことだなぁ,と思う.
設計され尽くした空間として博物館を見る,ということをはじめてやって,もっと知っていきたいな,などと思ったのであった.

ただ,それは「あるところ」を「語りたい」のであって,「新規の発見」をさらにそこからしたいわけではなく,それは現場で行われることであって,もっと「臨場感」があると面白いかなぁ,と演出とはカンケイないことも思ったりして.


歴史に思いを馳せることができて,今日は満足.

常設展示をみることができなかったので,今度はしっかり見たいなぁ.


…と今日は日記のような軽い文章で.

最近blogサボリ気味ですね.
がんばりましょう.

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昔の人がなにを考えながら生きていたのかって,知りたいよね.
いつから「生きる意味」とか考えるようになったのだろうね.
それに必要な要素とは…!

2011年8月10日水曜日

科学的とはどういう意味か

僕の人生とか、その考え方に、森博嗣先生は深く入り込んできている。
もともとは、吉祥寺のミステリィ専門のお店で、森博嗣好きの人に出会ったのがきっかけだった。

それから、高校時代に、図書館で森博嗣を読みあさり、まあ色々衝撃を受けたが、『すべてがFになる』には特に衝撃を受けた。
また、blogを集めた本である、『森博嗣の浮遊研究室』だったりだとか、『MORI LOG ACADEMY』などを読んで、楽しんでいた。
工学部とはどういうところだかいまだに分からないけれど、面白そうなところだな、とは思う。


そんな森先生の書いた新書、『科学的とはどういう意味か』



科学的とはどういう意味か (幻冬舎新書)


ラベルに「書評」なんて書いてあるが、僕はいろいろな先生方の評価なんてものをする気はないし、たぶん森先生も、amazonの売れ行きによって客観的に自己評価をしているだろうから、まあ、この本について語ろうと思う。

最近、科学を伝える、だとか教育だとかに触れる機会がよくある。
特に、iGEMなんてことをやっていると、となりのチームのことまで知っていて、しゃべる、なんてことがままある(日本のチームは仲が良いのだ)。
その時にも考えることだが、自分の専門知識を(専門と言えるほどではないのだが)、いかに普遍化してしゃべるのか、ということが重要になってくる。

そういえば、iGEMの一環で、アンケート調査をして、「遺伝子組換えについて抱くイメージ」や、「遺伝子工学の研究活動に対しての一般的な意見」を聴取したことがある。
その詳細についてはiGEM KYOTO 2010のページや他のアンケート参加チーム(UT-Tokyo)のページに譲るが、人々が、「人間の体内で、食べた生物の遺伝子が(消化されることなく、あるいは消化されずに、されても)人間に影響を及ぼす」だろうと考えていることがわかった。
「実験して時が経たないとわからないでしょう?」といわれるのだが、いんげん豆をたべてインゲン様になった人間がいただろうか。
遺伝子とは何か、どういう性質をもって、何を作り、さらにそれが何をするのか、知る必要があるということを感じたりする。


特殊な例で恐縮だが、少なくとも僕の周りでは、科学を知る人と知らない人とでは、物の見方に差があるという経験則がある。
たとえ文系といわれる人であっても、科学を「知っている」というだけで、あたりまえに危険なことはやらなくなるものだ。
一般的にも、おそらくそうだろうと思う。
確かめてはいないものの。


最近、多くの電気製品は、ブラックボックス化されている。
企業は、もうちょっと仕様を公開してくれれば、あるいは説明書はもっと薄くて済むのではなないか、そう思う。
分解したところで、このチップは何をやっているのか、みたいなことは想像しかできないしね。
そこも読んでしまう人もいるのだろうが…

まあともかく、オブジェクト的な思考はちょっといやだな、と個人的には思う。
入力と出力関係のリストだけが与えられるようなそんなものは…
宇宙研も自前で作ってたわけですしね。
リアクションホイールという、外注のものが、故障したときにブラックボックスで大変だったのだった。


この本によって科学的であるということが結構、明確になった。
これを読んでもらえれば、危険について(だけでなくていろんなことを)自ら考え、行動する、そんな人になるために、ちょっとは考えれる人になるかも知れない。
少なくとも、子供にはそうあってほしい。まだいないけど。


明確でないのは、宗教について。
宗教がよくわからないので、まだこれについては僕は触れられない。

2011年8月4日木曜日

熱力学の講義

久しぶりに僕が担当した講義、底本は、


熱力学―現代的な視点から (新物理学シリーズ)

である。田崎先生の科学についての考えが、僕は非常に好きで、このユニークな熱力学の教科書は、とても僕にとっては読みやすかった。
同時に、予備校の化学の時に覚えた違和感や、物理の気体分子運動論のときに感じた違和感の正体も、掴めた。

今日やったのは、2章4節までだが、仲間がとても活発に発言をしてくれたので、とてもやりやすく(あるいみやりにくかった)、そしてなによりとても充実感を覚えた。
これをリア充と呼ぶ、のかも知れない(違う)

詳細はこちら



ところで、iGEMについてだが、愚直に、今まで出たパーツを一つ一つ作っていく、というのはかなりありなやり方だと今日、ふと思った。
やってみるべきではないか。
人数が少なくてもできるし、人数が増えたとしても、また新入生が入ってきてくれたとしても、新入生を鍛えるにあたってまた2011にもあらたなパーツが作られているので、材料にこまることはない。

いままでのパーツの一部は、ほかチームから譲り受けようそうしよう…