2011年11月7日月曜日

観劇

昨日、劇工舎プリズム第57回公演『Nightfall』を見に行った。

感想を、覚えているうちに、ひっそりと書きたいと思う。
というか、なんか思考の結果、みたいなやつかな。


【演出論】
僕の中で、この演劇の大きなテーマとしては、「なんとかタルト」と「成長・変化」とだったのだろうな、と思った。
なんとかタルト、というのはゲシュタルトのことで、認識してしまうことを言っている。決して猫のタルトとかではない。
成長は、時間発展していく世界を生きる僕達にとっては当然のことなのだけれど、普段あまり意識していないこと。
併せて、覆水盆に返らず、ということも含んでいる。
この話にはおそらく、後悔がなかった。
すくなくとも、セリフには。
もちろん裏に抱えているものはあるだろうけれどね。

でも、それはこの物語の、とても素敵なことではないかな、と思う。


見えないものが見える、というのは昼と夜の関係に象徴されていて、暗くなって何が見えるか、というと、星が見えた。
なるほど、空には星があるのかと、知る。


いろいろと細かいことは気になったものの、全体としてかなり完成度が高く、そして僕は二度目の暗闇で不覚にも泣いた。暗闇でよかった。


【開演までの時系列順感想】
今回、駒場小空間には初めて行った。これは大変にすばらしいところですね。さすが東京大学お金がある…
靴を脱いで観劇したのも初めて。
ちなみに、僕は靴が苦手なので、これはとてもよかった(謎
あったかくむれるんだよね、靴履いていると。

その空間に入ると、扉があった。この扉が後にあんなことになるとは想像していなかったのである。
だめだよ構成部材は強度を考えないと…w
敷居を踏んでいる人も結構いたしな…まぁ、そんなことはどうでもよろしい。
いや、あとでまた話にでてきますけど。ごめんね美術さん。

その扉をくぐり、客席へ。客席は、サントリーホールのように、舞台を見下ろすようにして、両側にあった。

しばらくすると、注意事項が読まれ、演技がはじまる。
注意事項は二人によって(互いに面している客席に向かって)読まれたが、この声がピタリ合っていて、こいつらただもんじゃないな、と思った。
居住まいをただした。

そして開演。
いや、なんか開演(開園?w)したという雰囲気なしに、ラジオの音声が流れ(7時のニュースです)、いつのまにか演技が始まっていた。こういう始まり方もありなんだな、と思った。
その後もう一回注意事項が読まれたのだが、そちらは別に合っていなかった。
努力はしていたね。


【演技について】
演技は、声もしっかり出ていて(喉は大事にしよう、でも聞こえたから大丈夫)、動きもダイナミックかつピシリ、ととめるところはとめていて、素晴らしかったと思う。

明るいところの演技は、多少つたないところがあるものもいたものの、全体として感情表現、日常動作、動きの理由付けなど、よかったと思う。また、キャラクタを的確に動きと声で表現できていたのではないだろうか。これは脚本のことになるが、ちゃんとキャラクタの対応付けや、関係性の変化、示唆にとんだ言葉など、しっかり追っていてさすがだなと思った。
ちなみに僕のお気に入りは「えんちょ/うしさん」である。カンパも彼にしたw

距離感はどうだろうか…ほとんどはいいと思うが、測りきれていないところもあるように感じた。それは物理的距離として。

個人的には、暗いときと明るい時で動きに違いがあり、暗い時に静と動を組み合わせて強調していて、これはなんだろう、と思った。自然ではない動き。心理の描写か。
しかしこれは、後に明らかになるが、劇中作ということに由来しているのではないだろうか。
つまり、動物たちとむすめによるところ、というのは人間関係を描いた絵本、という解釈も可能だ。
これはこじつけ。

前半に動きのダイナミックなところを見せていたため、後半の孤独が浮き立つようになった。また、動きがピシリピシリとしていたことによって、「むすめ」のフラフラとした動きが強調されたと思う。

アドリブに正直ちょっと感心した。


【脚本・演出について】
アシモフの焼き直しだという。

外部と内部、二重に劇が展開する、というのは、かなり挑戦的だと思う。そして、脚本の書き方は気になる。同時のシーンを別々に分けて書いたのかな。
あのようなシーンではアドリブがどのくらいあったのか?
同時性を短い伏線として使うというのは、なかなかやるな、と思った。

「壁なし」の外部、内部で壁を想像させるという演出には、驚いた。
すごいなと思う。
映画でもそういう演出ができるだろうか。
やっているものがあればぜひ教えていただきたいものだが。
あれが「演劇の嘘」ってやつだな、と。
映画の嘘、というものもある。

出席簿がいつまで出ているのか、などと気になるところはあった。

また、さっきも言ったように、暗いシーンと明るいシーンがある。あれは、トランジションをする時()に「暗闇」が発生してしまうために考えられた、と僕は考えている。
「理由ある移動」だ。あれはとてもすごい発想だと思う。
まさか演劇ですべてのシーンが連続性を伴うとは。
その発想は全然、全く、未だかつて、なかった。
驚愕した。
ちなみに、そうでなくても、暗いシーンはとても効果的に使われていた。
ちなみに明るいシーンのセリフがそれを継いでいたこともしばしばで、それも面白かった。

ところで暗いシーンの時に手に持っていた明かりには、3種類あったが、あれは意味があったのだろうか。ちょっとわからない。そういえば、それの点灯/消灯のタイミングが音楽におそらく合わせていたのだろうが、よかったね。

時間のとり方は、本当にうまかった。台詞の間もそうだし、止めている時間もそうだ。暗闇もね。

劇中作である、というところに、最後震えた。
なぜか知らないけれど震えた。
僕はそういうどんでん返しは大好きだ。




【照明について】
明るいシーンについては普段と変わらないであろうから、暗いところについて述べる。
良い影の出来方だった。また、見やすかった。対角線に入れた光が特によろしかった。

最後の陽が沈むシーンは、とても色がざらついていて効果的だったし、星は(おそらく星だろうと思っている)、全体にわたって、見やすかったし、それだとわかった。客席に照明するという発想があるのですね。


【音響について】
ラジオは聞き取りづらかった。まぁ、あれはSEのようなものだろうから、しようがないとは思っている。
暗闇で、音楽をとても大きく入れたのは、大正解であろう。
また、暗いシーンのみで音を入れるという判断もよろしい。
曲も、BGとしてよかった。オリジナルなのかな。


【小道具、美術について】
とても綺麗な小道具や美術であった。
次回から部材強度については検討すべきだが、それ以外は良いのではないか。
僕は、あの事故がおこった瞬間に、美術監督か誰かが、脚本を確認して、扉を使うところすべてを書きだして、それまでになにかしらの修理を(暗いところのシーンの一部の照明を切るなどして)やるのかと思った。
しかし、1900公演までに修理するという仕事が発生したわけで、それはそれで大変だろうな、と思う。
そういう時間ギリギリの火事場の馬鹿力的なやつは好きだ。
反省はあるにせよ、いい打ち上げになったことだろう。





僕も学生の身であり、しかもかなり自由に生きている気がするので(故に制約を感じている)、「そんなんでいられるのは学生の間だけだ」とか、ぐさり、とくるセリフがあったりした。
「やりたいこと」や「やるべきこと」についても、いつも考えてたりする。
演じている彼らには、そういうものがあるだろうか。

この演劇をやるために、どれだけの努力があったことだろうか。
とても、よく、わかる。
一本の映画に、身を投じる、ということをやってきたから。
作品としては、圧倒的に、この演劇のほうがすごいのだけれど、僕も、こうやって人を感動させる作品を、いつか作りたい。


いつか僕も、このpax universitasのごとき、学生時代を抜けだして、どこかの世界で仕事をもち、働くことになるのだろう。
そのときのためにも、僕も努力をしていかなければならないな、と再確認した。

ありがとう。劇工舎プリズム。

2011年10月22日土曜日

学習について

twitterに連投したのが見難いので、こちらに貼ります。出典:ブリタニカ百科事典

個人的経験の結果として起る比較的永続性のある行動の変容。生物体が知覚によって自分の行動を変える場合も学習と呼ぶ。ただし成熟、披露、その他、器質的、帰納的変化による変容は除かれる。学習に依って形成された反応様式を習慣という。
学習に依って得た行動には、(1)連合学習ないし条件づけによる学習(古典的条件づけおよび道具的条件づけ)、(2)弁別学習、(3)順化(習慣化)、(4)概念形成、(5)課題解決、(6)知覚学習、(7)運動学習、などが含まれる。
模倣、洞察学習、刷り込みは以上とは異なる種類の学習である。17世紀から20世紀なかばまでの学習理論では、一定の普遍的な原理がすべての学習プロセスを支配し、それが機能する方法と理由の説明を科学的に証明することを目的としていた。
あらゆる生物体の行動を、自然科学で仮定された法則をモデルに統一体系で理解しようと、厳密で「客観的」な方法論が試みられた。しかし、1970年代までに、包括的理論には様々な漏れがあることがわかり、学習に関する単一の理論は不適切であると考えられるようになった。1930年代に、心理学のすべての知識を単一の大理論に統合しようとする最後の試みが、E.ガスリー、C.ハル、E.トールマンによって行われた。ガスリーは、知覚や心理状態ではなく、反応が学習の根本的で最も重要な基礎単位であると考えた。ハルは報酬に依って促進された刺激=反応(S=R)活動の結果である「習慣強度」が学習の不可欠な側面であると主張し、それを斬新的なプロセスとみた。トールマンは、学習は行動から推測されたプロせしであるとした。彼らが広めた幾つかのテーマは、現在も議論されている。

連合はそうしたテーマの一つで、主体は環境中の何かを感じ(感覚)、その結果底に存在するものの認識(観念)が生れるとの意見にその本質がある。観念につながる連合には、時間と空間における物体や出来事の接近、類似性、頻度、特徴、魅力などが含まれるとされる。連合学習は過去に無関係であった刺激を特定の反応に結びつける動物の能力で、おもに条件づけのプロセスによって起る。そのプロセスでは、強化が新しい行動様式を具体化する。初期の有名な条件づけの実験に、19世紀ロシアの生理学者I.パブロフによって行われた犬がベルの音で唾液を流すよう条件づけたものがある。しかし、刺激=反応説は様々な現象を満足のいくように説明が出来ず、過度に還元的で、主体の内的な行動を無視する。トールマンは連合には刺激と主体的な知覚的印象(S=S)が含まれると考える、より「客観的」でないグループの戦闘に立っていた。
もう一つの最近のテーマは、強化である。これは、主体の活動が報酬を与えられる場合にその行動は促進される、との発見を説明するために生れた概念で、強化の理論的仕組みについては激しい議論が続けられている。多くの心理学者は連合理論の普遍的適応性にあまり期待しておらず、学習には他の理由のほうが重要であると主張する。たとえば、ゲシュタルト心理学では、重要な学習プロセスには環境中の様々な関係の結びつきだけでなく、それらの再構築が含まれるとされている。言語心理学では言語学習には多くの言葉と組合せが含まれており、連合理論では十分に説明できないとされ、代りに、語学学習には何らかの基本的な組織化の構造、おそらくは遺伝的に受継いだ生れつきの「文法」が基礎となると主張されている。現代の学習理論の主要な問題には、(1)目標の遂行における動機付けの役割、(2)学習段階、(3)すでに学んだ仕事とまだ学んでいない仕事の間での訓練の転移、(4)階層、忘却、情報検索のプロセスと本質、が含まれる。行動遺伝学は先天的行動と後天的行動の区別といった重要な問題に貢献した。イメージ、認知、認識意思作用など、軽量化できない概念も探求されている。

学習と記憶のメカニズムは、神経系のおける比較的持続性のある変容に左右されるようにみえる。学習の効果は、明らかに可逆的プロセスによって脳にまず保たれ、その後より恒常的な神経の変化が起る。したがって2種類の神経学上のプロセスを示唆している。一時的で可逆的な記憶の短期的な機能は、記憶の痕跡を限られた期間保存する生理学的なメカニズム(シナプスの電気・化学的な変化)によって生れる。確実でより永続的な長期の蓄積は、神経単位の物理・化学的構造の変化に依存しているのであろう。シナプスの変化が特に重要と思われる。

2011年10月16日日曜日

伊勢田哲治 「疑似科学と科学の哲学」

友人に借りて、この本を読んだ。
読み方としては、懐疑的な読み方ではなく、ふんふん、という程度だが。


疑似科学と科学の哲学


本の内容は、以下のようであった。

「科学とは何者であるか」というのを研究するのが科学哲学であるが、その科学の性質を「科学なようで科学でない」疑似科学(えせかがく、ではないよ。えせは「似非」と書きますよ念の為)との比較によってあぶり出そう、というのがこの本の主題である。この「科学と疑似科学をいかにして分けるか」という問題を「線引き問題」という。

この本では、まず「昔は科学の一部であった」創造科学(創造が神によって行われ、その後洪水が起きて…という聖書の文言を基本的に正しいとするもの)や、「占星術」などを引き合いに出して、これらの論理にどのような「ずるさ」があるのか(我々は、これを主張する者たちに一種のずるさを感じているはずだ)、ということを議論し、帰納主義、反証主義、方法論的反証主義、還元主義、パラダイム論について書き、過小決定の問題(観察によって仮説が検証されないという問題)、理論負荷性の問題について、語っている。

科学哲学を学んだのははじめてだが、この中では特に、反証主義とパラダイム論は科学哲学の発展に多くの寄与をしたのだろうと思われる。パラダイム論の所で、クーンのパラダイム選択にあたっての基準として
1.実験や観察との一致
2.内部の無矛盾性および確立されたほかの理論との無矛盾性
3.応用範囲の広さ
4.単純性(オッカムの剃刀)
5.豊穣性(それによって何らかの新しい側面が見えてくるか?)
をあげている。

その後、リサーチプログラム論、リサーチトラディション論が派生してくるということが述べられている。


また、「実在」について、「電子なるものの存在」と、「超能力の存在」を引き合いに、科学理論においてその対象が存在するのか? という問題を問うている。
ここで出てくるのが、科学的実在論、奇跡論法(そういえば田崎先生は奇跡論法の使い手だった気がする)、懐疑主義、悲観的帰納法で、また反実在論として、操作主義、道具主義、構成的経験主義がある。
この後者の反実在論たち、僕は意外と好きだ。
とくに、構成的経験主義はいいと思う。ただ、その現象名をたとえば「電子の~」と呼ぶことも全然ありだと思う。

そういえば、田崎先生の「統計力学I」を読み始めたのだが、その中で、オストヴァルトが分子の実在を信用していく様子が書かれていた。それもまた面白い。


さらに本は代替医療へと進み、マートン流科学社会学、アナーキズム、相対主義を議論する。相対主義にもやはり批判はあり、これへの批判が展開される。

そして話は統計、特にベイズ統計をほぼ文字だけで(なんてこった)語り、最後に、筆者が「線引き問題」について語って終わる。


(線引き問題について)この考えはあった、という意味で、最後の文に、ちょっぴり感動したのであった。
もう一度読んで新たな発見をしないと、とも思うが、そろそろ返さなければならない。
輪講は、してもいいね。


*****

ということで、そろそろ返すよこの本。ちょっとぼろぼろかもだけど。
いや、新しいのを買って君に渡したほうがいいのなら、そうする。

まあ、夜も更けてきましたな。
友人の予言通り、ブログは書き上げました。
でもその先予言通りにならないよう、早く起きたいと思います。


久しぶりの更新でした。

2011年9月1日木曜日

そして22話

追うんですかこのアニメをこのブログで?w
自分でも突っ込みたいよ全く。


アニメの作り方として、声のほうが前に来るべきではないか、と思うほど声優が良い。
あるいは、演出しっかりしてくれー、といいたくなる。

横顔は、おそらく感情を映し出しはしない。
もうちょっと斜めのカットにすべきだったんだ…!
まあ、言ってもしょうがない。
し、他のところの演出がいいから、突っ込みたくなっているだけ。
最後のパンナップとか本当に印象的。

一応、ダレ場回。
だがクライマックスというとても素敵な22話。

以下ネタバレなんだけど

++++++

エンドロール後に、ようやく、1話の伏線が解消されることとなりそうな気配があった。

牧瀬紅莉栖を殺すのは、おそらく、鈴なのではないか…な。
「橋田至の娘、阿万音鈴羽!」だって?
やはり、ラジカンの屋上にいたのは、鈴羽だった。
そして本当に「元の世界線」に戻っているらしい。

同時に存在できる、ということだね。
いや、確かに存在できると言われていたけど。タイターによっては。


戻った世界線でのダイバージェンスは1%を超えている(なんのこっちゃ)が、おそらく、おそらくその世界線で生きている方の…やはり二人存在しているのはおかしいぞ?
違う世界なのだろうか?

1話で、岡部にとどいたメールが何か、ということが一番重要になってきそうだね。



また、突っ込みどころとしては、
「電話レンジはもういらない」に対して、車に乗っけられていくのはIBN5100。
どういうことなの…



この22話を見ることができて、よかった。

そして、脚本の…言葉が良い。
死ぬべき運命の人からの言葉、か。
染み入る。


++++++
しかし、活動電位をプローブして、その情報を伝える、という(ちょっと非現実的な:SFだししょうがない)設定のようなのだが、それで「過去に行く」「未来に行く」という表現をしているのはおかしいのと、演出で言えば、撮影者、という視点がいまどこにいるのか、ということが常に重要になっているわけだが、世界線を移動しているのは「岡部の意識」「その他の記憶」「撮影者」であり、人が移動していない、ということを明確にしておくべきなんだろうなぁ。


時間が、いかに尊いものかと。
場が、いかに尊いものかと。
座標じゃなくて、場だよ。
この三次元の。
そしてそこに存在する意識。


++++++

泣いても、いいんだよ。

2011年8月30日火曜日

すでに終わっていると思っていた

まだ完結していなかったのか。Steins;Gate。
アニメの放送を待つ、というのは初めてだよ。

時間があったのでちょっとだけ考えてみた。
脚本家もたいへんだねぇ。

しかし僕がこのブログでアニメについて考察するとはな…

以下、ネタバレ満載です。
なので、一応反転させてくださいねw



+++++

1話みなおし。

β
中鉢博士の発表会@ラジカン

発表会前に無事着陸しているタイムマシン。
キャップを逆に被った人(鈴さんでは? あとで言及)の姿。罰印を誰かに送っている。
どこかに消えたメタルウーパ
15分前に岡部にあったというクリス
「さっき、なにか言いかけましたよね、私に。
「15分くらい前
「何か言おうとしていましたよね」、「すごい、思いつめたような顔で…」

携帯に届くメール

受信日時:2010/07/28 12:26
差出人:sg-epk@jtk93.x29.jp
件名:件名なし
[添付]IMV001

→ノイズ

岡部らしき叫び声
妙な音、ドアの閉まる音?
刺されたクリス
鳴っている電話

<2000年にタイターがいる世界
(どちらも未来は変えなければならない)


@16話
橋田鈴からの手紙
「2010年に寄り道すべきじゃなかった」
→世界線が変わったときにおそらく寄り道している。
2010年は、同じ年。
つまり、中鉢博士の会見への移動である可能性もある。


α
人のいない秋葉原
飛行機の音? ただの効果音だろうか
ラジカンに突っ込んだタイムマシン<12時頃>

移行前は、岡部は人工衛星の墜落をテレビで見て
「ついに機関が動き出したー」とかいって
ふたりでみにきた

中鉢博士の会見中止
岡部「あの博士直前になって逃げた」
>なぜ中止になったのか?

2010/07/23 12:56
「牧瀬紅莉栖が刺された」というメール。
これがSernに捕捉されることによって、何が起こったのかな?

→鈴さんがくる
<2010年にタイター初登場
未来は変わらなければいけない
→2000年に登場?
*****

どうでもいいけど@1話:電話レンジ
「シャープボタンを押したあと、温めたい秒数を入力してください」
→120#
なんやねんw

追記:友人の話によれば、これは間違えた時のみにゲルバナの現象が起きるらしい。へー。

*****

岡部「これまでのDメールをすべて取り消し、世界線をもとに戻す。そこは…SERNが支配するディストピアが生まれない世界線。まゆりが死なない世界線。そして…その世界線では…牧瀬紅莉栖が---死ぬ」@20話

ディストピアは生まれるのでは?
生まれないのならタイムマシンはやってこない、はず。

*****



続きが楽しみね。

2011年8月13日土曜日

埼玉大学脳科学融合研究センターシンポジウム、一応のまとめ:後半

昨日に続く。

この日のメーンエベント、理研の俣賀先生による「新旧の技術を用いて大脳皮質・シナプス可塑性の作用機構を知る」と、富山大の井ノ口先生による「記憶形成の分子・細胞機構」である。

俣賀先生のお話は、

シナプス可塑性の話で、眼優位可塑性が例に持ちだされた。
シナプス可塑性とは、神経ネットワークのつなぎ替えが起きやすいことをであり、眼優位可塑性をもつ、とは、普通の視野を持った状態だと視神経から入った情報を視交叉というところで3次元的に投影しなおすのだが、どちらかの眼が見えないときに、いらない神経を繋ぎかえる、という操作が出来る状態にあることである。
これは、三次元的投影が可能な、眼が平行についた(狭い視野の)動物にしかないと思われていて、実験動物として猫を使っていたが、ネズミにもあることがわかってきた。
それで、最近はネズミを使って実験を行っている。

シナプス可塑性は、ある時期を過ぎると低くなる。そのシナプス可塑性が高い時期を臨界期、という。たとえば、ある動物(ガンやカモ、ニワトリ)は母親を認識するときに、最初に視認した同種の動物を母親だと認識するが、その書き換え(訂正)は生後14-42時間にわたって可能である、というふうである。
ついでに述べておくと、人間の言語習得もこれに含まれ、12年ほどが可塑性が高いとされる。


さて、視神経は、左世界が右脳に、右世界が左脳につながれていることは基本的であるが、その接続先には、片眼性のニューロンの領域がスライスで3mmあり、その外側に600μmにわたって両眼性の細胞がある。
片眼性とは、片方の眼から入ってきた光刺激にのみ反応する細胞であり、両眼性は、どちらにも反応する。
可塑性のあるときは、両眼性細胞が片眼性になりやすく、実験により、野生型マウスでは、その臨界期が生後4日であることが確かめられた。(Streiker et al.)
また、グルタミン酸、GABA(check!)をノックアウトしてあげると、臨界期が遅くなることが確認されている。

どのように繋ぎ変えられているのかを検証するため、シナプスの架橋を外すのにプロテアーゼが用いられていると仮定し、tPAという物質に絞ってみてみたところ、実際にこれによって変化が起きている事がわかった。
spineの可視化を遺伝子銃によって行い、この結果、spineが経験によって剪定されていることがわかった(これ他のところでも聞いたけどどこだっけ?)

さらに、それによって制御されるタンパク質を新たな技術、Multiple Reaction Monitaringで発見する、というものであった。。。

何を言っているのかわからないと思うが、僕にもわからない。
解説者をよこしてください。


井ノ口先生の話は、記憶の話であった。
基礎として、記憶のプロセスは、
経験→書込→貯蔵→想起
であり、貯蔵のところで、似た情報を連合させたりする。
また、記憶の質が変わるということが語られた。

長く覚えている記憶について、古い記憶はどうやって保存されているのか、という話が本題である。

まず、記憶について、どうも「強化仮説(:電線が強化されて、情報が保存されていく)」は正しそうだ、ということが語られた。

その後、「完璧な自白」の話が(この先生はまるで声優のようであった。おもしろい)語られ、長期間に渡る記憶の保持や、時間経過に伴なう記憶の質の変化について再起させられた。

記憶はまず、海馬に入って、その後大脳皮質に保存される。
海馬にある時を、海馬依存的といい、ない時を海馬非依存的という。
ない時には、大脳皮質にあることがわかっている。
ここに転送の作業があり、人間だとその期間は半年から1,2年程度だと言われているが、マウスでは28日後には転送が終了している。

もちろん、転送の仕組みはわかっていないが、ここで現実的な最大の疑問は時間と共に海馬から情報を消去するメカニズムであった。

結論としては、これが、海馬での神経新生にあることがわかったのである。

そもそも、海馬での神経新生は、「SSRIの作用に関与する」とか、「記憶の獲得に関与している」とか言われてきたが、井ノ口先生らは「既存の神経回路を撹乱する」として、確かめた結果、わかった、ということだ。彼らの研究はCELLの表紙を飾ったという。すごい。

また、彼らは、記憶の質が大脳皮質に移ったときに変化するか、ということを調べていて、少なくとも28日では変化していないことが見出された、ということだ。

ところで、神経新生の促進は、たぶんメモリ容量を増やし、記憶を促進するだろうと言われているが、それは、DHAやEPAなどのω3系の脂肪酸によって促進されるということだったので、みなさん、運動しましょう!w


以上、まとめを終わる。

2011年8月11日木曜日

埼玉大学脳科学融合研究センターシンポジウム、一応のまとめ:前半

埼玉大学脳科学融合研究センターのシンポジウム「脳の未知に挑む技術」に行ってきました。
先生方は、自分の研究分野と脳科学を繋げようと頑張っているな、という印象だった。

簡単にまとめる。

トップバッターは、大倉先生「in vivo脳での神経回路活動の理解を目指した新技術研究開発

神経細胞の、Ca2+の濃度変化に応じて、GFPの分子構造を変えて、濃度が高いときに光る、というような分子(タンパク質)を作り出した、という話。
これはもちろん、遺伝子に入れてあるのだが、それは発現する場所、時間を任意にコントロールしたいためである。
実際に、高濃度(100μM)のグルタミン酸に対する応答として、spineのカルシウムイオン濃度変化を観察した、ということであった。


二番目は、化学科の中林先生「塩水の中で動くいい加減だが堅牢な電気化学回路
という話で、

非線形振動子の話は、まあちょっとわからなかったので割愛するとして、腎臓の腎孟(じんもう)という器官では、尿を濾すためにポンプ運動をしている。この器官の上流を潰すことによっても、このポンプ運動をつづける。ただし、その周期は長くなっているという。そこで、腎孟のモデルをつくり、このポンプ運動を再現しよう、という話であった。
ポンプ運動の周期を、細胞の固有振動数を変えずに、変えることができる、という二つの例が示され、後者の細胞数の変化によるモデルが現実系に近いのでは、という検討がなされていた。



三番目は、若狭先生による、「MFEプローブによるナノ反応場解析

生物が(地球)磁場を感じる仕組みについてで、European Robbinsやウミガメの観測、実験をもとに、磁場センシティブな生物とそのラジカル対を用いた仕組みを話された。
よくわからなかったので、もう一回ゆっくり聞きたい。
たぶん、キィワードは「ケージ場」


四番目は、高柳先生の、「プロトン移動反応の量子シミュレーション

古典的にはプロトン移動は「玉突き」のような現象といて理解されるが、分子の小さなクラスタについては、量子的に考える必要がある、ということが示され、100Kにおける量子化学的シミュレーションと300Kにおける古典的シミュレーションの熱、量子ゆらぎがほぼ同じ様なものになっている、ということが例示された。
また、水和した硫化水素について、同じ温度での古典と量子シミュレーションが比べられ、古典における水の相がどちらかというと固体にちかく、量子においては液体に近い(クラスタだから、そこまで相について言えるとは思わないけど)ということが言われた。先生によれば、量子論では、相転移が起きやすいということだった。

高柳先生の話で重要だったのはたぶん、「核の量子性」で、それゆえに分子動力学法がちょっと信用ならないもの、という話をしていた。


次に講演されたのは、綿貫先生で、「脳と機械をつなぐブレイン・マシン・インターフェイス技術の開発

これは、川口の鋳鉄の技術を伝えるのに、拡張現実や、それと、入力に対して応答するある形のもの(インタフェイス:たとえばクレーンのリモコン(に似た何か)であり、また「鋳鉄の時に使う蓋」の取っ手だったり)を用いてみた、というものだった。
人と脳をつなぐのには、まず人の脳の活動を調べることが重要だが、そのために、脳の血流を測定する機械が必要で、名前は忘れた(←!)ものの、表層の活動部位が非侵襲的にわかるということが利点である。
この技術を用いて、現実を、初心者に使いやすい形で補助していく、ということが行われている、という話だった。

他にも、感性の話とかあったけど、割愛された、と思う。


埼玉大の先生で最後に講演されたのは、西垣先生で、「分子細胞ネットワークを知るための4次元発現パターン解析法の開発


脳は、ネットワークが何らかの機序によって発生し、保存されることによって動いている。
このワイヤリング・パタンを探るために、脳のネットワークがどうなっているのか知ろうというもので、まあ、この研究室で昔から開発してきたマイクロアレイやペプチドアプタマーの開発技術を使って、発生から追っていこう、というもの。
しかし、これはやはり、細かいブロックを作って確かめようというもので、生体ではできないようだ。
そこで、西垣先生は、まあ、シンクロ的に学習する系を作って、それで時間的変化を追おうという話だったが…それはどうかな…



後半は、また明日。

2011年8月10日水曜日

科学的とはどういう意味か

僕の人生とか、その考え方に、森博嗣先生は深く入り込んできている。
もともとは、吉祥寺のミステリィ専門のお店で、森博嗣好きの人に出会ったのがきっかけだった。

それから、高校時代に、図書館で森博嗣を読みあさり、まあ色々衝撃を受けたが、『すべてがFになる』には特に衝撃を受けた。
また、blogを集めた本である、『森博嗣の浮遊研究室』だったりだとか、『MORI LOG ACADEMY』などを読んで、楽しんでいた。
工学部とはどういうところだかいまだに分からないけれど、面白そうなところだな、とは思う。


そんな森先生の書いた新書、『科学的とはどういう意味か』



科学的とはどういう意味か (幻冬舎新書)


ラベルに「書評」なんて書いてあるが、僕はいろいろな先生方の評価なんてものをする気はないし、たぶん森先生も、amazonの売れ行きによって客観的に自己評価をしているだろうから、まあ、この本について語ろうと思う。

最近、科学を伝える、だとか教育だとかに触れる機会がよくある。
特に、iGEMなんてことをやっていると、となりのチームのことまで知っていて、しゃべる、なんてことがままある(日本のチームは仲が良いのだ)。
その時にも考えることだが、自分の専門知識を(専門と言えるほどではないのだが)、いかに普遍化してしゃべるのか、ということが重要になってくる。

そういえば、iGEMの一環で、アンケート調査をして、「遺伝子組換えについて抱くイメージ」や、「遺伝子工学の研究活動に対しての一般的な意見」を聴取したことがある。
その詳細についてはiGEM KYOTO 2010のページや他のアンケート参加チーム(UT-Tokyo)のページに譲るが、人々が、「人間の体内で、食べた生物の遺伝子が(消化されることなく、あるいは消化されずに、されても)人間に影響を及ぼす」だろうと考えていることがわかった。
「実験して時が経たないとわからないでしょう?」といわれるのだが、いんげん豆をたべてインゲン様になった人間がいただろうか。
遺伝子とは何か、どういう性質をもって、何を作り、さらにそれが何をするのか、知る必要があるということを感じたりする。


特殊な例で恐縮だが、少なくとも僕の周りでは、科学を知る人と知らない人とでは、物の見方に差があるという経験則がある。
たとえ文系といわれる人であっても、科学を「知っている」というだけで、あたりまえに危険なことはやらなくなるものだ。
一般的にも、おそらくそうだろうと思う。
確かめてはいないものの。


最近、多くの電気製品は、ブラックボックス化されている。
企業は、もうちょっと仕様を公開してくれれば、あるいは説明書はもっと薄くて済むのではなないか、そう思う。
分解したところで、このチップは何をやっているのか、みたいなことは想像しかできないしね。
そこも読んでしまう人もいるのだろうが…

まあともかく、オブジェクト的な思考はちょっといやだな、と個人的には思う。
入力と出力関係のリストだけが与えられるようなそんなものは…
宇宙研も自前で作ってたわけですしね。
リアクションホイールという、外注のものが、故障したときにブラックボックスで大変だったのだった。


この本によって科学的であるということが結構、明確になった。
これを読んでもらえれば、危険について(だけでなくていろんなことを)自ら考え、行動する、そんな人になるために、ちょっとは考えれる人になるかも知れない。
少なくとも、子供にはそうあってほしい。まだいないけど。


明確でないのは、宗教について。
宗教がよくわからないので、まだこれについては僕は触れられない。

世界同時株安について

今日は、予定を変更して、世界のお金の動きについて考えてみた。

別に僕は専門家なわけではないが、少しでも考えることによって、この社会というものがちょっとは理解できれば、うれしい。(とりあえず人に向けて書いている、というよりは日記的性質をより多く含んでいる)

それから、上記の理由によって全くまとめになっていないことも付け加えておく。
言いたいことは一番最後だけですしね。



さて、まず今回の株安について、現状を書いてみる。

米格付け会社 S&P が、米国債の格付けを一段階引き下げ。
ホワイトハウスはこれに対し、過剰に反応しないように声明を発表。

米株式市場、ダウ平均株価が600ドル以上の下げを記録。
G7首脳会合で、協調していく姿勢を確認。

アジア市場でも、韓国市場が一時停止したり、インドネシア政府、韓国政府が介入、フィリピン政府も介入の姿勢を示す。

日経平均株価、4ヶ月ぶりの9000円台割れ
日本円が一時76円台を記録。

米ダウ平均株価反発、200ドル近く上げる。

現在、FRBの連邦公開市場委員会(FOMC:6週間毎に開かれ、金融政策の方針が話し合われる)の結果待ち

といったところである。


さて、なぜ株価が下がるのか、円が高くなるのか、ということが問題である。

※以下、個人的考えであるということを先に言っておく。

まず、格付け、というのは、格付け会社が判断した、(国債の)信用度、である。
これが下がると、そこから資金が引かれる、ということになるわけだが、米国債の場合、国債の利回りはもう限界近くまで下がっており、これ以上下がることはあまり予想できない。
そこで、アメリカという国に依存している企業から、投資の手をひいた、ということであろう。

これは、一時的な対応で、お金を失いたくない、という思いが先行して、恐慌的に市場が乱れる現象だと思う。

同じように、米国が信用を(ちょっとだけ)失うというのは、米国と取引する会社、米国債を持っている国、その他米国と関係を持つ、あるいは米国に依存しているものの信用が二次的に損なわれる、ということになる。
いま、米国と関係のない国や会社はほとんどないだろう。
そのために、世界の会社とか国とかを(ちょっとだけ)、信用できなくなった投資家が、そこからお金を引いて、他の、信用できるところにお金をうつそうとしているのだ。



信用できるところとはどこか。
先進国の中で、比較的信用できるのが、日本円である。
これはなぜかというと、貯蓄が借金を大きく上回っているからであり、また外国に対して黒字国だからである。
他に、信用できるものとして金(Auである。価値の指標が一定であり、金本位制の頃にはもちろん、通貨として流通していた)や、スイスフラン(同じく貿易黒字)があげられる。
ここにお金が入ってくることによって、価格が上昇しているのである。

他に信用できるものとしては、資源を持っている国のお金、である。


見てきたように、お金は「信用」なんてもので動いているのだ。
信用は、簡単に崩れるもので、それは人と人との関係でもそうらしい。

そんなもので動いているので、みんな一斉に不安になって、我先にと恐怖に陥るわけだ。
自分のお金を預けているわけだからね。


それで、どんどんお金が信用できそうなところに流れるわけだ。
もちろん、たぶんオピニオンリーダや、あるいは様子見をしている人達もいて、大群になって一つのところに集中するので、バブルとかも起こるわけなのだけれど。


とにかく、円が値上がりしているのは、円の信用が強いからである。
株安になっているのは、みんなが不安になっているからであり、しばらくすれば落ち着く、というのが本当のところではないかしら。



でもね。
何がいけないかって通貨がいろんなところで違って、基準が見難くなっていることだよね。

域内だけじゃなくて、もう全世界を同じ通貨でまとめたほうがいいのではないかと思う。

システムを複雑にしているのは人間であって、複雑なまま保っているのもまた人間なのだ。
高速化したシステムを誰も理解出来ないなら、もはやそれしかあるまい。

2011年8月8日月曜日

ファーブル



Jean-Henri Casimir Fabre (December 22, 1823 - October 11, 1915)
皆さん知っての通り、ファーブルという人は、昆虫やその行動をつぶさに観察したことで有名で、誰もがその『昆虫記』は読んだことがなくても、聞いたことがあるだろう。


彼の特徴は、学界の大勢である意見、たぶんこうだろう、という予想に対して、観察をし、実験系を組み、それらによって反証、検証したという点である。
ただの観察に終わっていない点が当時としては画期的だったようだ。


wikipediaにはファーブルが昆虫記の中に予想をいかにも見たように書いている、という下りがあるが、当時の科学界では(とくに昆虫の世界では)このような書き方は一般的ではなかったのか(よくは知らないので調べる必要はありますが)。
ただまあ、科学に対しての反証というものの信頼性が下がるという主張は理解できる。




最近、知らず知らずのうちにファーブルと同じ(ような)実験をしていたことに、驚いた。
それに対して、僕は普遍性を追い求めようとしなかったが、ファーブルは求めたのか、と彼の科学者としての態度に驚く。


それはどういう実験かというと、蝉に対して大きな音を聴かせる、という実験だ。
僕の場合、手を叩く、であったっが、ファーブルは、役場から銃を持ってきてもらって空砲を撃ったという。


どちらの場合にも、蝉が鳴き止んだり、行動を変えることはなかった。
僕はファーブルのその実験を知って、ああ、そうか僕は追試をしたのか、と思った。


後の研究により、蝉は人間の可聴域とは違う領域で音を聞いていることが判明したという(いったい何ヘルツなのだろう)。




また、彼は本能について研究をしていた。
彼は、本能について、「一度それを始めるとやめられない」もの、と言っていたと思う。
僕がいまファーブルのことを書いているのは、NHK-BSの番組に影響されているが、その中で衝撃的な映像を見たのだ。


サソリは、交尾する前に、ダンスをする。
愛のダンス。
オスはそのダンスが終わって、交尾をするとメスに食べられてしまうという。
しかし、
オスは、そのダンスの途中で、誤ってメスを毒針で刺してしまうのである。


メスは、すぐに死に至る。
しかし、オスは、動きを止めたメスを、必死に一緒に踊ろうと、何度も、何度も左右にゆっくりと、そのはさみをつかんで動かすのである。




シリーズを通して繰り返される、本能とは、プログラムされて、それをやめることができないものである、ということばに強く心を打たれた。




それを観察する系を作ったのは、奥本大三郎先生。
いま、ファーブル昆虫記の完訳に挑んでいるという。
それで、ファーブルのしたことを追うために、様々なことを実際にやってみているということだそうだ。


この先生は、かつて埼玉大学の教授だったのだという(現在は名誉教授)。
それも含めて、ファーブルとこの先生の書いた、昆虫記を読んでみたいとそう思う。



完訳 ファーブル昆虫記 第1巻 上


ところで、教科書を信用しないということの重要性だが、当時の科学界が予測をあったことのように書いているということは先に述べた。
その記述を信用せずに、ちゃんと実験系を作って試す、というのはかなり重要な作業ではないかと思う。
科学は経験則であり、教科書は、経験ではない。

たまるネタ

ここ数日間これを書いていなかったので、なんだ、三日坊主か、と思った方も多いと思う。
(いまのところこのBlogのURLは二人しか知らないはずだが…w)


いまのところ溜まっているネタは、
「ファーブル」
ファーブル昆虫記とセミ、それと教科書を信じないということの重要性
「科学的であるとはどういうことか」

「海上自衛隊の装備と技術」

「技術から車へ」

「技術への認識」

「電灯とサーカディアンリズム、発達とうつと、不眠」
蝉とか

「茶太」

「「祭り」と鎮魂、それにお盆」
「まつる」ということについて。

「ダグタイル鋳鉄」

技術についてが多いですねー。

まぁ、これらを頭に思い描きつつ寝ます。
おやすみなさい。

2011年8月4日木曜日

東京の過去

今日は、書籍を書いに、神保町に行った。
神保町の「村山書店」「書泉グランデ」「明倫館書店」「南洋堂」である。

最後の南洋堂は、つい、ふらっと、ポスタにつられて入ってしまったのだが、とても良かった。



これは、国土地理院が出している、東京の地形データをもとに作った模型で木製、まあ、高さは強調されているのか今思えば。

とても面白かった。
建築専門の本屋さんなんて、全く縁などないのだが(村山書店はむかしは建築専門だったらしいが)、今日のこの企画はとてもそそられ、そしてユニークだった。


東京の歴史と、いまが、そこに見えた。
トウキョウって、あらためてすごいところだな、と。

例えば、溜池山王が本当に溜池だったとか。
渋谷が渋谷川の合流点だったとか。

目黒川、神田川がはっきりと見えて、それも面白かったが。


「地下の構造も作ってみてくださいよ」って言っておいたが、「データを用意してくれればね」と言われた。
とりあえずGPS装置でも自作して、こんど地下構造を探りに行きたいね。

熱力学の講義

久しぶりに僕が担当した講義、底本は、


熱力学―現代的な視点から (新物理学シリーズ)

である。田崎先生の科学についての考えが、僕は非常に好きで、このユニークな熱力学の教科書は、とても僕にとっては読みやすかった。
同時に、予備校の化学の時に覚えた違和感や、物理の気体分子運動論のときに感じた違和感の正体も、掴めた。

今日やったのは、2章4節までだが、仲間がとても活発に発言をしてくれたので、とてもやりやすく(あるいみやりにくかった)、そしてなによりとても充実感を覚えた。
これをリア充と呼ぶ、のかも知れない(違う)

詳細はこちら



ところで、iGEMについてだが、愚直に、今まで出たパーツを一つ一つ作っていく、というのはかなりありなやり方だと今日、ふと思った。
やってみるべきではないか。
人数が少なくてもできるし、人数が増えたとしても、また新入生が入ってきてくれたとしても、新入生を鍛えるにあたってまた2011にもあらたなパーツが作られているので、材料にこまることはない。

いままでのパーツの一部は、ほかチームから譲り受けようそうしよう…

2011年8月2日火曜日

吉田武「はやぶさ」

2003年の今日、8月2日は、日本発の人工衛星「おおすみ」が、33年ぶりに大気圏に帰ってきた日である。
午前5時45分、北緯30.3度、東経25.0度で大気圏に再突入し燃え尽きた。

日本の科学は、非軍事利用による技術発展をしている。
他国の人工衛星が弾道ミサイル技術の副産物として衛星技術を磨いたのに対し、日本のロケット・衛星の技術は、たかが一大学の機関が得てしまった。

この「おおすみ」投入ですごいことは、放物線をロケットが描く、それだけを利用して軌道投入を成功させている点だ。このあとも、宇宙研は世界屈指の軌道制御技術を身につけていくことになる。


本書は、「はやぶさ」の開発に至る、「宇宙研」、宇宙研を作った「糸川英夫」について、その生い立ちから追っている。
宇宙研という機関への糸川の思いや、組織の設計、いかにして宇宙研が素晴らしい機関になったのか、ということが書かれている。

また、この本は、吉田武らしく、原理からの説明があり、少しでも(理論)科学の世界を見せようという、吉田の意気が見て取れるのではないか。(あいまい)

とまれ、はやぶさのもつ、「中華鍋」は、帰還した。
ここで、本書に出てきた、川口プロマネが作ったという採点簿を見てみよう。

電気推進エンジンの稼働開始(3台同時は世界初):50点
電気推進エンジンの1000時間稼働:100点
地球スウィングバイ(電気推進によるものは世界初):150点
自律航法に成功して「イトカワ」とのランデブー:200点
「イトカワ」の科学観測:250点
「イトカワ」にタッチダウンしてサンプルを採取:300点
カプセルが地球に帰還、大気圏に再突入して回収:400点
「イトカワ」のサンプル入手:500点

である。
おわかりだろうか。
本書によれば、川口プロマネは、この加点式採点簿を「100点満点」としたそうだ。
はやぶさは、それを500%も超えてしまった。



はやぶさ―不死身の探査機と宇宙研の物語 (幻冬舎新書)


「おおすみ」の運用は、15時間ほどであった。
その運用から33年後、7年にもわたる深宇宙探査が実現するとは、糸川は想像していただろうか。
想像していたかも知れない、とは思う。


僕は、吉田の言う「モグラ」をやる一人で、iGEMというものに関わっている。
この本を読んで、どのように組織を作っていくべきか、またちょっとずつ見えてきた気がする。

もうひとつ。
人間があることを為すには、やはり情熱が必要で、情熱に人は打たれて、成長し、また、人を感動させる、ということに気づいた。
いまさらだが。
最近、自分の中で、情熱を感じない。
いかにして再び取り戻すか。
挑戦である。


ロケットの打ち上げ、一回は見に行きたいなぁ。

自己紹介

はじめまして。

おっころもち、といいます。
物理をやっている大学生です。
興味の分野は広く、学問ならなんでも、というところでしょうか。
議論が好きで、議論できる仲間がもっとほしいと思っています。


どこかに自分の考えをまとめ、また表現するツールが必要だと思いながらも、それをする労を惜しんできて早数年。
昔、共にblogをやっていた友人が再びblogをはじめたのをきっかけに、僕も思い切って再びblogの世界に戻ることにしました。

このblogには、今自分が考えていること、書評、日常の出来事、議論のネタ、科学について、教育について…などを書いていくことにしようと考えています。


こんなblogを読んでくれる人がいるかどうかは謎ですが、よろしくお願いします。
また、コメントを下さったり、議論をふっかけてくれたりすると、著者、大変に喜びます。

読んでくださった方々、ありがとうございます。