2012年7月29日日曜日

演出の構造と博物館

今日は,日中をつかって江戸東京博物館において行われていた,「発掘された日本列島2012」に行ってきた.


全国で発掘された様々な遺跡の調査結果を展示してあるのだが,それぞれの遺跡でやはりいろいろなストーリィがあって,面白かった.
遺跡の醍醐味ってやはり,想像できるところだと思うのです,

展示の仕方も,あとでどこかに写真をあげるけれども,一工夫あって,面白かったです.


それを見つつ,今朝海外との会話で「演出」について会話したことを思い出していました.

いや,はじまりが「おはよう」と「こんにちは」と「こんばんは」だったんだけれど.
それがちょっとたのしかった←

で,まとめもクソもないんだけれども,僕がそこで「発見」したこと(もしかしたら自明なんだけれども)があるのだ.
それは,「演出」には「意味」と「形式」があるっていうこと.

モノから「意味」を抽出してくるのが演出だと僕は思っているのだけれども,そのときに与える「構造」があって,それは「形式」だなぁ,と気づいたのだ.


今日の博物館で言うと,やっぱり博物館,あるいは主催者,キュレータ,学芸員の「見せたいもの」というのがあって,それが前面に出てくるように「なっている」.

たとえば,一つだけ台においてあるとか,
背景の色が変えてあるとか.
他にもあるのだろうけれども.

それはとってもすごいことだなぁ,と思う.
設計され尽くした空間として博物館を見る,ということをはじめてやって,もっと知っていきたいな,などと思ったのであった.

ただ,それは「あるところ」を「語りたい」のであって,「新規の発見」をさらにそこからしたいわけではなく,それは現場で行われることであって,もっと「臨場感」があると面白いかなぁ,と演出とはカンケイないことも思ったりして.


歴史に思いを馳せることができて,今日は満足.

常設展示をみることができなかったので,今度はしっかり見たいなぁ.


…と今日は日記のような軽い文章で.

最近blogサボリ気味ですね.
がんばりましょう.

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昔の人がなにを考えながら生きていたのかって,知りたいよね.
いつから「生きる意味」とか考えるようになったのだろうね.
それに必要な要素とは…!

2012年7月23日月曜日

Mr.ビーンと,束縛のある社会

今日は軽めに.
Mr.ビーンが受ける,という事実とその考察をちょびっとだけ.


Mr.ビーンの幾つかのストーリィを,かつて見たことがある.
彼のやっていることは,(子供の頃)誰もがやりたい,と思ったことではないだろうか.
「自由」というものの具現者である,とも言えるだろう.

その「自由」の「失敗」を見せることで,「普通」の人に対して「笑い」を提供しているのだろう,と僕は考えた.

近代における世間の人々は,自らの周りに自由を作らず,あるいは作れず,束縛されている.

Mr.ビーンは「自己中心的」で,その束縛を解き(むしろ感じておらず),自由であるのだ.

何から自由かというと,たとえば「法律」,「常識」,「タブー」,「慣習」だったりする.
人々の,潜在的に抱いている,「そうでありたい」,「そうしたい」という思いを実現し,「自由でないもの」の存在に対して疑問を投げかけるとともに,それが失敗する事によって,「束縛」の正当化へと,「落とす」のだ.


…一般には.
それによって,「多くの共感」を得るのだと考えられる.


しかし,「自由」を中心にして考えると,それはちょっと変わってくるのではないか.
「自由であること」は「失敗に対して責任を負う」ということにほかならない.
Mr.ビーンは,いくつも失敗をしているが,「それでも自由を貫く」という姿勢を崩さない.

あの人に「常識」があれば,すごい苦闘なんだろうなぁ.と思いつつ.
役者自身は,すごい葛藤を感じている,という気はする.

「束縛されること」は確かに楽であり,それは世の中の大半を占めている.
しかし,「僕にとって」その「束縛」された状態って本当に望んでいるものだっけ,と「僕は」あらためてはっとさせられたのであった.
ただ,あそこまでのことをしようと思っているわけではない:念のためw

Mr.ビーンの生い立ちとか,背景があるなら知りたいですな.


なんとなくそういうことを感じたのでつらつらと.

2012年7月22日日曜日

このblogの立場について

僕はこのblogを,議論の原点になるべきもの,と考えている.

僕には考えたいことがいくつかあって,それらを並行して,常に考えていたりする.
だから,それらを15分くらいでまとめて,ちいさな論文にする,という形式をとりたいと思うのだ.

もちろん,それだけの時間であるから,まとまっていないことも,背景となる情報が足りないこともある.
でも,発表をしていかないと思想なんてものはわからないのだ.

だから,ここに書いてあるのは,「現時点の僕の思想の一部」であると理解して欲しい.


もっと時間をかけることは明らかに可能ではあるのだけれどね.
そういうのは,「連載もの」としてやって行きたいなと思う.
いま進行中のものは,「なんちゃってロゲルギスト」(やめたわけじゃなかったんだ!←),「逮捕されたときのことを考えたい」.


基本的には,毎日更新していきたいが,それができないこともあるだろう.
けれども,生暖かかく見守ってほしい….


ここの議論が,どこかで取り上げられるとか,反論されるとかあると,僕はとてもうれしい.

たとえば,
http://talkoff.pvsa.mmrs.jp/X/modules/xpress/
ここらへんで.
個々に掲載することが催促になればいいなぁ,なんてw

2012年7月18日水曜日

「逮捕保険」

「逮捕」と「保険」という組み合わせ,あるいは「逮捕保険」と調べても,「保険金詐欺」とか「保険金目的」の「殺人」とかそういうものしか出てこない.


しかし今日提案したいのは,「逮捕」されたときに支払われる「保険」についてである.

「逮捕」された「そのとき」の話はまだちょっと先…


前に「冤罪」について議論した(し尽くしたわけではない)が,明らかに,現代において「逮捕」はリスクである.
実名が報道されるなど,逮捕された時点で社会的に虐げられる.


「(国が)間違っている」,あるいは「間違っていた」ことがわかっても,刑事補償が受けられる,ただそれだけである.
有名な再審事件である,免田事件(政治経済や,現代社会で出てきますね!)のときには免田栄さんが30年以上死刑囚として囚われていたが,これに対して刑事補償として約9千万円が支払われている.
もう一度言うが,ただ,それだけである.

その間,獄中でなにもできなかったのに,である.
毎日,死刑が執行される可能性があったにもかかわらず,である.


免田事件の際には,免田さんが「年金が支払えていない」などということも問題になったと記憶している.
問題になるのは,やはり,「国が損失させた機会」を保障しないことであろう.
妻がいて,子どもがいたけれども,それらの生活が破滅的になってしまったかもしれない.


前回は,「国家機関」として「被疑者の無実を証明するもの」をおいたが,今回のは,「保険会社」が,その保険料を支払う,あるいは支払わないために,調査をしてくれるものを,ということである.
いや,これ国家機関のほうがいいんだけれど.お金なくても支払ってもらえる,ということでは.


まず,保険会社は,統計的解析などから,保険料を決定する.
高い方は申し訳ない.(払えない人への解決方法が必要!(文化的で最低限な生活,ではないか.
逮捕されない時間が増えると,保険料は減っていくだろう.

逮捕された時には,その身柄拘束期間に応じて,支払いが行われることになる.
それは,家族の生活費,勤務先で他の人を雇うにあたって発生する人件費,国に払うはずであったお金などを保障するものでありたい.

この保険料を支払わないために,「無罪」の可能性を十分に捜査する.

逮捕歴に応じて,「保険料」は上がっていく…


こうすると,事件が増えたりするのだろうか…景気が悪くなるに従って…


うーん.
ちょっとこんがらがってきたのでここまで.
今日のは宣伝しないことにしておこう.

2012年7月15日日曜日

雰囲気を変えて

今日は,一日中ではないけれども,いつもよりは動画を見て過ごしていました.
一つ目は「紙兎ロペ」

自然な会話ってこういうのなんだろうなぁ,っていうのと,一回ごとに背景が一枚で構成されているというのが工夫のしどころなのではないだろうか.
一本3分未満で.
プレイリストはこちら.
http://www.youtube.com/user/GiftMovieROBOT?feature=watch

「脱力」って感じ.
なんもかんがえてないぜー! っていう.
日常系.
日常系については以下もあった.


これも一枚絵で構成されている.
6分.
会話の「重ね方」がうまいなぁ,って思う.
音声だけで聞いてみると,本当に自然.

本当にシュールですねw

人物自体の動きもぬるぬるとそれなりに自然.



最後に,スバルのCM集を.



僕はこの「多くのストーリィを」というテーマにすごい共感すると共に,濃縮された時間に,涙がぽろっぽろと流れたよ.
本当にすごいなぁ.こういうものを,作ってみたいのものだ.
「ストーリィを提供する」というのは,iphoneで行われた手法と同じかもしれない.
けれど,これは本当にありではないか?


これらは「演出」にもすごい参考になる気がする


みなさんはこれらの動画に何を感じるだろうか.

2012年7月14日土曜日

逮捕されたらすべきことを考えたい.そのいち.

僕は逮捕されたことがないのでわからないけれど,先日冤罪について考えたときから書きたいと考えていた.

冤罪ってどのように免れるべきなのだろうか.
ということである.
痴漢冤罪は近年話題になっているが,僕は冤罪一般について考えてみたい.


すべきことを後回しに,まず妄想から.

警察の他に,弁護士らと共同して「被疑者の無実を証明するために動く」国家機関があってもいいのかな,と思う.すべての事件について捜査を行い,その調査結果を提出する.

これはバイアスによる冤罪を防止するだろうし,犯罪率も実は減るのではないか,と見ている.
しかし,のちに述べるように「証拠」はそれを阻むのだろうと考えられる.
ので,もう一つ「証拠の管理」を行う図書館のようなところを作るべきだとも考える.
裁判所付属,になるでしょうか.


さて,タイトルが「考えたい」なのは,まだ「すべきこと」に至らないからである.
今回は,「すべきこと」について考えるために,その背景を描き出してみたい.
多分シリーズ物になるが,定期連載ではなさそう.

日本での冤罪の可能性って殆どの人は意識していないのではないか,と思う.
そもそも,「逮捕されたら有罪」という考え方はずっとはびこっているのではないか.


まず今日は,「バイアスの存在」について意識しておきたい.
巷で「逮捕=有罪」の意識があるように,警察にもそういう意識があるとかんがえられる.

それは,逮捕までの作業が「証拠を固めること」であるからだ.
逮捕状の請求は「適切な証拠」のもとで行われ,裁判官の判断によって逮捕状が出され,逮捕が行われることになっているということも理由にあげてもいい.

逮捕した時には,「後はおとすだけ」という意識があるのではないか,と僕は仮説する.


同じバイアスについて言うと,裁判官においてもそうであって,裁判官は中立であろうとしているけれども,ニュースを見ないわけではない.
そのニュースにおいて,「犯人」視している報道に偏っている場合,それに判断が引きずられるということは否定できないと僕は考えている.


警察,検事においてのバイアスはさらに裁判にも持ち込まれる.
「最良証拠主義」というものがある.

警察→検察→裁判所
への証拠提出は最良の証拠のみとする,というものだ.

しかしながら,被疑者/被告人にとって有利な証拠も警察/検察により収集・保管されるわけで,その公開がなされないというのはなかなかに皮肉である.
というのも,戦後刑事訴訟法の証拠法は被疑者/被告人のために制定されたはずであるからである…
多くの再審においては,不提出証拠が提出されるために無罪になることが多いという.


この最良証拠主義はどうして出来たものかちょっと調べてみたのだが,みつからなかった.
教えてもらいたいものである.(裁判時間の短縮のため,と書いてあるところは多かったが)



今回は,捜査側,中立であるはずの裁判所における被疑者不利なバイアスの存在について見てきた.
被疑者に有利なことはないだろうか? というのは探していきたい.


次回は,「閉じ込められること」と「脅しの構造」について,だろうか…まだ考えていない.

2012年7月11日水曜日

演出の基本的思想

演出に対して,いま,基本的な立場を明確にしておきたいと僕は思った.
自明のことかもしれないが,ただの呟きであると思って欲しい.


すべての演出は,「わかりやすさ」なのだろう,と今のところ僕は考えている.

そのためのの手法として,「視線誘導」だったり,「理解しやすい構図」「時間的変化」があったりする.
他にも,レンズを変えるとか,パンとか,いろいろある.


逆に,「わかりにくい」ということを利用する演出もある.
それはたとえば,「敵」,「仲間でない」,「対立の構図」を生み出すものなのであろう.
と,思っている.

では「予感」などはどのように表現するだろうか.
「象徴物」に「時間」を付与するものであろうか.


具体的手法についてはこれからいくつも研究していくと思うが,いまのところこんなかんじのことをもやっとふわっと考えているのである.



演出は「シナリオ」に付随するものであり,シナリオは「目的」に付随するものである.

目的をもとに,シナリオを組み上げ,演出する.
これが理想だな,と考えている.


いままでごっちゃにやってきた気がする.
これをちゃんと構成してみたい.


スタンリィ・キューブリックの2001: A Space Odysseyを見始めた.
ちょっとずつ研究していきたい.
25分までセリフがなくて,これはすごいと感じた.
「把握」できているから,「演出」は適切なのだろうな,ということである.
「言葉」に頼らない演出こそが,最終的な理解を助けると僕は考えているので,これはとてもすごいものだ,と思う.

「記号」というものはキィワードのひとつになっていくのだろうな,と思う.
記号に付与される「意味」.
わざわざ「記号」にすることによって,「大雑把な」共通理解を得るようにする.
ということではないか.
記号は,「音」や「音楽」でもありえる.
実は「単語」でもありではあるのかも.

演出に携わると,このかんがえが変わっていくだろうか.
楽しみである.

疲れているので,こんなかんじでまたお茶を濁すことにする.

2012年7月10日火曜日

きょうはおやすみ.

…というのもなんだかなぁ,という感じなので,とりあえず最近見た動画でも張ってお茶を濁そうかと思う.


Lady Gagaは,ちょっとだけ耳に触れたことがあった.
それをフーガに書きなおしたというのだからびっくりだ.

フーガそのものだよね.
こういう遊びができるのって格好いい.
僕もやってみたい.べらぼーな対位法使いになりたい!

というわけで,どうぞ.




おしまい.

2012年7月9日月曜日

歴史の捏造

昨日「ラベリング」と言っておいて話が違うではないか,と思われた方もいるかもしれない(連続して読んでくれている方,ありがとうございます!).
しかし,僕は歴史の捏造というものは,「先入観」や「ラベリング」によって起こるものだ,ということが言えるのではないか,と考えているのだ.
今日は,二つの例をもとにして,これを話したいと思う.
ひとつは,「ルワンダにおける虐殺」で,もう一つは「ギリシャ古代彫刻」の例である.


ルワンダにおける虐殺については,ルワンダの教育大臣と大使の講演を聞く機会があり,その時に勉強したのだけれども,それが報じられた当時,原因となっているのは「フツ族」と「ツチ族」の対立とだ言われていた.しかし,この「民族」同士には本質的差異はなく(遺伝的な差異も認められないという),むしろ「政治的立場」や「生業」によってベルギーなどによる「植民地支配」のやりやすさのために分割されたとされる.植民地経営においては,「フツ」と「ツチ」という民族は別のものである,というような教育がなされたという.

これは「ハム仮説」に基づいているが,ハム仮説は優生学的な考え方に基づいている.
また,この「ハム」というのは創世記におけるノアの3人の息子のうちの一人である.残り2人はセム,ヤペテである.

優生学の根拠の無さについては機会があれば触れることにしたい.

この虐殺は1994年に起こったもので,100日足らずのうちに50万人以上が殺された,というもの.映画「ホテル・ルワンダ」では「ゴキブリどもを殺せ!」などとラジオががなりたてていたのが印象的だった.(いや見るべきところはそこじゃないと思うけれど
殺害されたほとんどが「ツチ」だったといいますが,フツの人たちもいて,「民族対立」というよりはむしろ「政治的対立」が民族対立というラベルで「上塗りされた」ものだと考えることができる.


話が大分それたけれども,ラベルの話としては,「フツ」と「ツチ」の話で,「与えられたラベル」に「従う」ということがありえる,という話をしたくて,この話をしたのであった.


次に,与えられたラベル,という見方で,「大英博物館におけるギリシャ彫刻の改竄事件」を見ていきたいと思う.
本当はルワンダの話をラベリングに「絡めて」する予定だったのだが,それを練っていた時に,NHKスペシャルが背後でやっていて,その内容に寄ろう,と考えたのであった.
内容に関しては参考4を当たってほしい.
簡単に書く.

かつて,ギリシャ芸術はエジプトや西アジアの影響を受けていたことが知られていたという.
しかし,古代ギリシャ芸術に関してWinckelmannは1700年代に「ギリシャ芸術は人類が到達した最高の美」であり,「ヨーロッパの目指すべきはギリシャの模倣である」とした.
その考えは,19世紀にヨーロッパに訪れた古代芸術ブームに対して,ギリシャ芸術が「白い文明で」「純粋で高度なものだ」というイメージを与えたという.
そんな中,古代ギリシャは西洋に権威を与える格好の存在で,ヨーロッパのルーツとして設定され,そう教育されたという.
また,ヨーロッパ(特に英国)では,ヴィクトリア女王のウェディングドレスによって「白」ブームがおき,ギリシャは「純粋」「白」の象徴的存在とみなされるようになったという.

1938年に大英博物館のスポンサーだったDuveen卿は,ギリシャから持ってこられた大理石の彫像(エルギン・マーブル)を,作業員に銅へらなどを用いて「磨かせた」という.この結果,彫像は(くすんだ色の)表面が削られ,彫刻は白くなめらかになったという.表面には「浮き彫り」があったにもかかわらず,それは失われたとも.
これは,観客の「ギリシャは白いものだ」という考えに迎合し,その望むものを作らせたと言われる.
しかし,実はギリシャの芸術は,むしろ色がふんだんに使われており,ギリシャ人は大理石をキャンパスに用いていたということが「(再)発見」されてきている….

という内容だった.
番組における論理の順番は逆だったりするけれども.
ともかく,「ギリシャは白い」というラベルに対して,現実を曲げて「そうである」と言ったことが(博物館でさえ!)あった,という事実には,とても興味深く見入ったのだった.


以上二つを見てきたが,「歴史」は「ラベル」によって改竄可能である,ということが言えるのではないか.
「ラベリング」は「中身」の性質を変えることもあるのか,たとえば「血液型」などというものに対して作用するか,という話もできるかと思うが,また後の機会があれば,しよう.
「バイアス」なども十分に関わってくるだろう.


・ジェノサイドはいじめと通じるところがあると思う.もうちょっと知りたい.
・RPFって物理の人が言うとRichard P. Feynmanなのよね…


参考
1.ルワンダの紛争とエスニシティ
2.ルワンダの虐殺から考える 東京大学学術俯瞰講義 2007.6.19 - 武内進一
3.NHKスペシャル - 知られざる大英博物館 第2集 古代ギリシャ "白い"文明の真実
4.西 村 洋 子 の 雑 記 帳 (16)
5.British damage to Elgin marbles 'irreparable' - Helena Smith / The Guardian 1999/11/12
6.Elgin Marbles - Wikipedia

2012年7月8日日曜日

「公平である」ことについて

科学において,「合理的」で「公平な」判断をする,というのは非常に重要なことである.
ところが,それはむずかしいんだよ,ということが言われる.
バイアス,というやつである.

バイアスの研究は,TverskyとKahnemanによって,多くなされている.
彼らの前には,「合理的選択の理論」というのがあった.

ここに書いてある議論の多くは,伊勢田哲治「疑似科学と科学の哲学」から引用している.



バイアスについて,まずは,「典型的なものの頻度を実際以上に評価してしまう」という代表性バイアスがある.
例として,賭博師の誤謬というものがあげられる.
ルーレットにおいて10回赤が出続けた時に,「次は黒が出る可能性のほうが高い」と思う,というようなものだ.
もちろん,ルーレットにおいては一回一回同じ確率で,「赤」と「黒」が出る.「赤ばかりの配列」よりも「赤と黒が混じった」配列のほうがより典型的であるためにこのような思い込みが起こる.


次に,「すぐ思いつくもの,目に付くものの頻度を実際より高く評価する」利用可能性バイアスがある.
たとえば,英単語のうち,rという文字が1文字目に来るものと,3文字目に来るものはどちらのほうが多いだろうか.
Kahnemanらの研究によると,1文字目,と答える人のほうが多かった.


オペラント条件づけ」と「迷信的思考」は関係している.
お守り,とかゲン担ぎ,とかがこれに当たる.
ハトやマウスにおいて,餌を与える際に動物ののある行動と関連付けて与えると,その動物はその行動を繰り返し行うようになる.この行動は(餌においてではないが)人間でも観察されている.
人間の場合,これに不確定要素を導入したときに(確率的変動など),迷信的連関付けが行われることがわかっている.


基礎比率の無視
これを説明するには,「感染者問題」と呼ばれる問題がある.
以下のようなものだ.
「乳がんの発症率は1%である.患者が乳がんを患っている場合,検査で陽性反応が出る確率は80%である.患っていない場合,陽性反応が出る確率は,10%である.このとき,検査で陽性反応が出た時に,患者が乳がんを患っている確率はどのくらいだろうか?」
ベイズ定理に基づけば,この確率は,
$$\frac{0.01 \times 0.80}{0.01 \times 0.80 + 0.99 \times 0.10} = 0.074$$
となり,約7.5%である.
Eddy(1982)の研究によれば,多くの実験協力者の直感的判断は,75%前後になる.
これは,「条件付き確率」80%に引きずられているためだと考えられる.
この際に,「基礎比率」である「乳がんを患っている」1%を無視してしまうのである.


「今持っている仮説に都合の良い証拠を探したがる」という検証バイアスというものもある.被験者に曖昧さの残る証拠を与えたとき,被験者が念頭に置いている仮説と一致するものはあまり吟味されずに受け入れるが,仮説と矛盾する証拠は厳しく吟味する,というものである.


また,他人の影響もあり,Aschの同調実験という実験でそれが確かめられている.自分以外のすべての被験者が(サクラ)誤った答えを一致して言うと,その答えに引きずられる,ということが知られている.


このように,多くの要因が,公平な判断を阻害していることが理解できるかと思う.


あすは,「ラベリングについて」再考したいと思う.
いつの間にかまた$$LaTeX$$が使えなくなっている…かなしい.
デザインを一新したからなのだろうなぁ…ヘッダに入れてたんだっけ…

--
参考
疑似科学と科学の哲学
確率を用いた推論課題における回答方略の検討

2012年7月7日土曜日

リスクと多様化,自発的対称性の破れ

なんというタイトルではじめるのだ,と自分でも思っている.
とりあえずつらつらと語っていこう.
今日は短めなので目次は書かない.


「ヘッジファンド」,という組織がある.どんな組織かというと,「投資行動をして」,「儲ける」というただそれだけの組織だ.
ヘッジファンドは「ハゲタカ」とか言われたりもしたこともあるので,耳にされたことのある方は多いと思う.
ヘッジファンドの「ファンド」は「基金」であるが,「ヘッジ」ってなんだったろうか.
hedgeは,「生け垣」という意味で,そこから派生して「防御するもの」→「(掛け金の)分散によるリスク軽減」という意味に転じている.
彼らは,様々な投資先を選択することによって(多様化させることによって),リスクを分散しているのだ.

リスクについては勉強していないのでそこまで語ることはできないが,明らかに,「一つ」に頼るより,分散していたほうが,リスクは低くなる.経営の合理化などが叫ばれて久しいが,合理化というのは,じつはリスクをあげることにほかならない,とも考えられるのではないか.多様性を失わせることにほかならないので.



自発的対称性の破れ,という現象がある.素粒子物理学の分野で,南部先生が1961年に論文を出されている(2008年にノーベル賞を受賞).これは,簡単には「向きが揃うとより安定になるよ」というようなものだ.
最近,CERN/LHCにおいてHiggsが5シグマで「存在している」というデータが出た,と話題になったが,このHiggsによって(動きにくさとしての)「質量」があらわれるのは,「自発的な対称性の破れ」によってだと考えられている.

多様性を失うと,系に与えられる摂動が小さくなると考えられる.そのため,系は安定になる(のか? この時点での考えの表明にすぎない.あっているとは限らない).また,その「場」の中にいる粒子は制約を受ける.

「空気を読む」だとか,「いじめ」だとかいうものは,ここらへんとも関わってきそうな気がする.


「安定性」についても語りたいのだが,勉強不足により,後日にする.
熱力学第二法則とは絡めたいところだ.

物理について拙い理解しかしていないのが悔しい.

2012年7月4日水曜日

「レールから外れて」生きるために

もくじ
「レールから外れた」ヒトとして
「ラベリング」は単純化
単純化と「レール」の関係
もっと「複雑なラベリング」を!

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「レールから外れた」ヒトとして
高校までは,あるレールに乗ってきた.
それは,たとえば「私立の中高一貫校で,エスカレータ」というものであったりする.

ところが,受験期に僕は大きな決断をする.
それまでやってきたものを脱ぎ捨て,ブツリなどという奇っ怪極まりないものに手を出すことにしたのだ.
それが,たしか,試験が直前に迫っていた11月だったと思う.

数学は,苦手です.よって物理も苦手です.

その結果として,成績をぽろんぽろんと落としている自分がいるわけだ.
そのまま卒業できないかもしれない,なんて言われている.
そもそも出席が危ういとか.自業自得.

べつに自分の身の上話がしたかったわけではない.
ただ,「レールから外れている立場」のひとが書いてますよ,と主張したかっただけである.
ま,それほど外れているとも言えないのが苦しいけれど.


「ラベリング」は単純化
さて.
最近,「ラベリング」することについて,疑問を感じている.
たとえば,「ゆとり」とか,「老害」とか.
主に否定的ニュアンスを思いつくことができる.

ところが,実際話してみると,「ゆとり世代」であっても「一人ひとり」は違うし,もちろんご老人もそうである.
それは自明のこと…といってもいい…ですよね.

それを一人ひとりについて見ていくと,面倒くさい事この上ないはずで,それを「単純化」するために,「ラベリング」「タグづけ」と呼ばれる操作をするのである.

「値段」とか,「得点」とか,そういうのも「ラベル」の一つに入る.
しかし,「一つのラベル」に頼ると,大変なことが起こる.
たとえば,留年生(過年度生,というらしい)は全員サボっているのだろうか.
若者は全員オタクで全員不良だったりするのだろうか.

僕は,この「ラベリング」について,ヒトコト言いたいことがあるのだ.


単純化と「レール」の関係
さて,上のような内容が「レールから外れる」という話とどう絡んでいくのか.
そもそも,その人はなぜレールからはずれたか,というと,画一的な処理からはじき出されたからであって,画一的な処理はある一つの,あるいは少数のラベリングによって行われることが多い.
たとえば,「テストの点数」なんてラベリングの最たるものではないか.


もっと「複雑なラベリング」を!
「一つのラベルに頼ること」の危険性は,さっき述べた.
理想的には,ラベルなんてなく,ただ「そのもの」を認識する,というのがいいのだろうが,我々の認識の仕組みとして,おそらく不可能ではないか,と思える.「ラベルを多く貼る」というのが現実的な解ではないだろうか.

最近は,ビッグデータの時代と言われる.
ビッグデータは,たとえばamazonのような,「顧客の情報」を収集し,整理し,その上で顧客にフィードバックする,というようなところに使われる.
そのビッグデータとして,多くのラベルを使い,そして人やモノゴトを「評価」できないか,という考えを表明して,今日のところは終える.


「評価すること」,「バイアス」,「ラベルの時間変化」についてはまた考察したいと思う.
この問題に付随するものとして,「政党政治」,「リスクマネジメント」などがあるだろう.「評価」をする部分だ.