2013年5月26日日曜日

ハコニワセカイ感

今日,盆栽のことを思った.
生物をコントロールして楽しむ,という行為の,
比較的最初期のものだろう.

僕はこれに詳しいわけではない.
盆栽をやっているわけでもない.
盆栽をやっている人が身近にいたわけでも,
大宮にある盆栽美術館に行ったわけでもない.
(ましてやCTスキャンもしていない)

盆栽というのは,
マツなどの木,あるいはその他美しい植物を
ある程度の制御を加えて育て上げ,
「力強い姿」とか,「自然である感」を
ミニチュアのサイズに抽象する,という,
生物を通した(オールド・)メディアアートだ.

手間ひまかけて,栄養をやり,枝や葉の剪定をし,
針金で成長方向を制御し,水の量や太陽へのあて方で
成長の度合いを制御する.

枯れるまで,終わりはない.
成長も含めて,アートである.
(日本の)アイドルのようなのではないか,などとも思う.
常に応援されて,より良いとされる存在に育ってゆく.
ただし,盆栽の方は人間より長く生き続けたりするわけだが…


ゆっくりと,状況を騒擾しないようにすることを,
「準静的だ」という.
日本には,準静的,あるいは静的な「世界観」を
楽しむものが,幾つもある.
盆栽もその一つだろう.

たとえば「茶道」では,茶そのものと茶室が
静的な世界観を作り上げている.
茶人は,茶室を一つの世界として仕立てあげ,その中で
「点てる人」と「いただく人」との関係性を,楽しむ.

「俳句」は,「現実の世界」からやはり「抽象」を
行うことで,「感情」を表す.
抽象された世界観には,現実とはちょっと違う趣があって,
それもまたよい.
俳句という,コトバの連なりに捉えられた,準静的世界.
そういう解釈でいいのかしらん.

ほかにも,「華道」,「香道」,「能」,「歌舞伎」,「舞」…など
貴族,武士,庶民,と広がっていった文化の中にも,
いくつも「限定されたワクの中で世界を作り上げる」ものがあり,
枚挙にいとまがない.

「量産」という技術が発達してからは,箱庭の領域もさらに拡大した.
レゴを使って街を作ったり,鉄道が町中を走るようすを再現したり.
あるいは,コンピュータの中で,たとえば「シムシティ」や
「A列車で行こう」というようなゲームで自分だけの世界を作ったり.
「Civilization」なんて,AIと戦った末に「自分の世界」ができるという,
中毒性の高いゲームだ.
日本だけではなくて,実は世界でも,「自分だけの世界」づくりは行われる.

こう思うと,日本人の「ウチ」と「ソト」感は,ゲームに関しては
もしかすると同じようなモノが得られるかもしれない,と思うが,
話が錯綜しすぎてわけわかめだろうから次に.


一方で,生物をコントロールしよう,という取り組みは,
犬を飼うとか,農耕をするとか,そういうところからすでに始まっていた.

人類のすべてがアフリカ大陸にいた頃から,行なわれてきたことだ.
共生関係としての人間以外と人間.
広く捉えれば,「教育」だって,人間対人間の「コントロール」に
ほかならない.

ただ,「生物」をもっと「生物」としてとらえて,
「あるがまま」性をもっと拡張してもいいのではないか,ということは,
生物とかかわるときに忘れてはならないことだろう.


ある限定されたワクの中に,
自分の愛する世界を作り出すために,
生物を使う.

それは,文化として,とても「あり」なことなのではないかな,と思う.
特に,技術を通していろいろなことができる中で,
そういうトライはあっていいと思う.
ゆっくりと見つめつづけることも,できる.
毎日世話をすれば,それなりの物を返してもらえる.
もちろん見返りを期待してのことではない.


友人の話を聞いて,これを書いてみた.
ちょっとでも役に立てば,幸い.
だからといって,役に立たなければいけないこともないし,
たぶん役に立つこともないw
ただ,思ったことを書き連ねただけ.


やっぱり,僕は発想がいろいろな方向に飛ぶね.
文章を短時間で書く,ということには向いていないかもしれない.
特に「発想する」タイプの文章は…
いくらか書きためて,整理して,データを集めて,発表するとか,
そういうことをせんと,いかんのだろうなぁ……
駄文になってごめんね.
それと,認識が根本的に誤っていることもあろうから,
そういうところは指摘してね.

そんなことを思いながら,数ヶ月ぶりのblogでした.

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