2013年11月11日月曜日

これから、僕はなにをしていきたいのか。

本当に久しぶりの投稿です。

夜が眠れないので、とりあえず文章を書いて
落ち着こうとおもいました。

だから、散文的で、構成もくそもなくて、
ただ思ったことを書き連ねるだけの……
まぁいつもそうなんですけれども。


さて、ぼくがとてつもなくワクワクする瞬間があります。
それは、この世界がこれからどうなっていくのか、
考えることです。
あるいは、この世界をどうしていきたいのかと
考えることです。



それは、Localであれ、Globalであれ、かわりはなく、
たとえば「この組織はこれからどうなっていくだろう」とか、
「この製品の発展は、技術は、市場は…」という考えも
もちろんそのようなものの一つです。

これを考えるには、どうしたって過去を振り返り、
その文脈の上で現在がどう成り立っているのか、
ということを考える必要があります。
世界は連続的に機能しているからです。

時間以外にも、空間を考える必要があるでしょう。
つまり、その世界はどの世界と通じているのか、と
いうことですね。

ぼくはそういうこと、つまり
現在のありようを見て過去を想像することも、
過去はこうであったという記録にあたって、
現在までのストーリィ(仮説)を構築するのも、
とても好きです。
(もし戦争が起きた時には、きっとぼくは
用兵の計画をたてたり、ソフト・パワーを
どう使うかを考えたりするほうに回りたいはずです。)

また、現在の新しい「見かた」(視点)を
獲得する、ということも、とても
エキサイティングなことです。

ぼくは現在、物理を勉強しているわけですが、
実は社会学系の人間だったのだと
ひしひし感じる今日このごろです。


ところで、ぼくには、
(幸運なことに)いくらかの友人がいます。

その内の一人は、人生を楽しくするために
努力、というか力を注ぐことを惜しみません。
とても尊敬すべき生き方だな、と思うし、
僕もこれを手本としたいと考えています。

つまり、僕は、僕の見かたで世界をどんどん
広げるように生きていきたいと、
そのように思っているので、
そのためにどう生きるべきかを
そろそろ真剣に考えなければいけないだろう、
と思ったわけです。


そういえば、今年の夏に
ある合成生物学系サークル(一意に特定
されそうな気がする)の飲み会がありました。
そのとき、隣りに座ったひとから、
「あんたはいろいろな方向に興味を
広げているが、「広く浅く」か
「絞って深く」か選んだほうがよいよ」
という、本当にありがたい命題をもらいました。

これは、本当に痛いところをついていて、
どうしたものか、と考えあぐねていたのですが、
最近になって、「広く浅くを深く探求したい」
のかもしれない、ということを見出しました。

たぶん、これは時間との勝負にはなります。
コンピュータの世界では、何かを見出すとき、
「広さ有線探索」と「深さ優先探索」という
二種類の探索方法があり、
プログラマはこれを場合に応じて使い分けます。
深さ優先探索は、一つのフォルダを開き、
その中にあるフォルダをまた一つ選び開き、
といったことを繰り返す方法です。
広さ優先は、最初に開いたフォルダの
中にある全てのフォルダを開いてみて、
その下の階層も同じように処理する、
というやり方をします。

一概にどちらが早い、というわけではないですが、
複数の処理系が同時に動ける場合は、もしかしたら
深さ優先探索のほうが早いのかもしれない、
と今思いつきました(笑)。
ちょっと話がそれました。

人生は時間が限られています。
その中で、世界のすべてを知ろうなどということは、
きっと不可能です。
それでは、そのやり方として、どういうものがあるのか、
というと、やはり深さ優先、という方向に
落ち着くのでしょう。
深さ優先では、前の人の道筋を追って、
それをさらに深めていく、という世界の把捉の
仕方をします。
それであれば、特定の分野に限って、
いままでの「系譜」を使うことができるので、
やはり効率が良いのでしょう。

これもいつかは限界が訪れるかもしれません。
なにを前提知識とするか、ということが、
だんだん進化するかもしれませんが、
人間の素朴感覚との乖離が今以上に進んでしまうと、
学習にも、やはりそれだけの時間がかかることになるでしょう。

そうすると、今度は学習方法の改善、というところが
これからのキィになってくるかもしれません。


…また話がそれました。

何をしたいのか、という話に戻ると、
「広さ優先探索」をできるかぎりやっていきたい、
ということです。
ただ、それだけではダメで、
これをハイブリットにやっていきたいなぁ、と思うのです。
具体的手法はまだ考えついているわけではないのですが、
近いところまでは来ていると思います。

編集工学者・松岡正剛氏のありようなどは
参考にしたいものです。

それと、自分ならではの「知」の得かた、
整理の仕方、学習方法の効率化の普遍化
などに取り組んでいきたい、行かなければならないと
考えています。

いまのところ、学問として真剣に取り組めている
ものは皆無と言っても等しいです。
社会人として、あるいは研究者の卵として、
どんなかたちであれ、活躍している同年代の人は、
もう、いっぱいいます。
遅ればせながら、僕も真剣に
取り組まなければならぬであろう、
という覚悟がいくらか、まだ甘いながらも
決まってきた一年ではありました。

自分が真剣になにかに取り組むにはどうしたらよいか、
それを見出し、また世界観が広がり、
「役に立つ」分野横断的思考手法、のようなものが
見いだせたら、本当に好都合だと思うけれども、
そこまでは行かなくていいので、
とりあえずまた一年頑張ってみよう、
と心をあらたにして、
そろそろ寝ます。

長々と書き連ねましたが、おわり。

みんな、本当にお世話になっております。
ありがとう。

8 件のコメント:

  1. O.colo様

    ブログ拝読しました。
    あなたの率直な気持ちに揺り動かされ、
    私の思うところをコメントさせていただきます。

    “「あんたはいろいろな方向に興味を
    広げているが、「広く浅く」か
    「絞って深く」か選んだほうがよいよ」
    という、本当にありがたい命題をもらいました。

    これは、本当に痛いところをついていて、
    どうしたものか、と考えあぐねていたのですが、
    最近になって、「広く浅くを深く探求したい」
    のかもしれない、ということを見出しました。“

    O.coloさんほど広い興味をもって、
    その一つ一つが専門から見ても、
    「ある程度」の知識を持っている人はなかなかいません。
    あなたと比べると全然足元にも及びませんけども、
    私も自身をそんな人種だと思っています。
    私もその人種だから分かるのですが、
    「誰の話にもついていけるが、どの話も深く語り合えた気がしない」
    というジレンマに陥っているのではないでしょうか?

    私も、「広く浅く」と「狭く深く」について、今でも悩んでいます。
    自分の知識や考えが伝わらないのは、
    もしくは自分の考えに納得がいっていないのは、
    様々な分野を網羅した知識が足りないからじゃないか?
    ある分野の考え方がしっかりと身についていないからじゃないか?

    でも、ですね。
    同時にこうも思っています。
    まなび方が、「広く浅く」か「狭く深く」のどちらかでなくてはいけない、
    なんて他人にのたまう人は、
    自分自身がわだかまりを引きずっているんじゃないか?と。
    その命題を賜った方が、
    「広く」と「深く」のどちらを志しているのかは分かりませんが、
    知識獲得の方向性がある、と考えている時点で、
    ご自身に何か報われていないものを抱えているのではないか、
    と邪推してしまいます。
    ご自身が満足しているなら、
    そんなことわざわざ他人に「忠告」はしないからです。
    他人の考え方など考える暇もない。
    (あれ、ということはここにコメントをつけている私は…笑?)

    生きていれば知識は自然につきます。
    考えていれば自ずと知識は深まります。

    コンピュータの検索の例は、なるほどと思いました。
    でも、私は、
    「所詮コンピュータじゃないか」
    と思います。
    なぜ、コンピュータのアルゴリズムを、
    人間が採用していると考えねばならんのでしょう?
    人間の考えの一部を外部化したものが、
    コンピュータなのに。

    「広く知る」は、知識を得ていくこと。
    「深く知る」は、知恵に変えていくこと。

    このコメントを書きながら、
    そんな言葉が思い浮かびました。
    知恵、とは身体化された知識のことです。
    コンピュータが発展しても、
    まだ「身体」を持つコンピュータの性能は人間には追い付けていません。
    身体を使って考えることは、
    まだコンピュータには「解らない」はずなのです。

    「広さか深さか」なんて方向付けしないでも、
    考えて、動いて、もがいていれば、
    “何か”にはなっているでしょう。
    「広くいくか、深くいくか、それが問題だ」とか、
    それを「戦略的に」やらねばならんとか、
    「効率」を上げなければいけないとか、
    ぶつぶつ言っていると、
    なんだかつまらなくなりませんか?
    少なくとも、生命力が高まっている感じは、
    私はしないですなぁ。

    生きる。
    知りたいことを学ぶ。
    学んだことを実践する。
    足りなかったところは素直に聞く。

    生きて、ぶつかって。

    学ぶことに必要なのは、
    それだけでしょう。

    だから、たったの一点、
    多くの考え方に同じように悩み、考えていると感じたO. coloさんの文章の中で、
    たった一個だけ共感できない箇所がありました。

    “(もし戦争が起きた時には、きっとぼくは
    用兵の計画をたてたり、ソフト・パワーを
    どう使うかを考えたりするほうに回りたいはずです。)“

    なぜ戦争という喩えを用いたかは、
    問いませんが、
    ここであなたが述べているのは、
    「人を使って、人を殺させる立場」をあなたは望ましいと思っている、ということです。
    人を殺させたことに、その殺させた人に発生した責任を肩代わりする覚悟はありますか?
    戦争は、究極の状況なので、考えることは難しいでしょう。
    まなびに置き換えてもいいです。
    人を“使って”自分の知りたいことを知ろうとしていませんか?
    計画を立てる側だというならば、
    計画を立てることに命をかけなくてはいけないと、
    私は思っています。
    「あわよくば、楽して知りたい」
    そんな風に考えていないだろうか?
    生きるために仕方なくそうなってしまうのではなく、
    自分の都合を先にもっていってはないだろうか?
    もし、違ったら申し訳ありません。
    ただ、その一点だけ、気になりました。

    “人生は時間が限られています。
    その中で、世界のすべてを知ろうなどということは、
    きっと不可能です。
    いまのところ、学問として真剣に取り組めている
    ものは皆無と言っても等しいです。
    社会人として、あるいは研究者の卵として、
    どんなかたちであれ、活躍している同年代の人は、
    もう、いっぱいいます。
    遅ればせながら、僕も真剣に
    取り組まなければならぬであろう、
    という覚悟がいくらか、まだ甘いながらも
    決まってきた一年ではありました。“

    そうですね。まずは、一歩一歩ですね。
    私も二周遅れぐらいしています。
    迷惑もいっぱいいろいろな人にかけっぱなしです。
    そうやって自分が受け取った何かを、
    次の誰かに、
    ちょっとでもよくして渡していきたいと思っています。

    ブログを拝読して、
    ほとんど同じ趣旨の文章が書けそうだと思うほど共感しました。
    お互いに学んだことを交換しあえるといいですね。
    (そういう関係を気づいていくことも、
    私は「まなびの広さ」の一つだと思っています)

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    1. また原稿用紙5枚程度になってしまいました。うん。。

      コンピュータに学ぼう、とは考えていないけれども、
      この2つの方向性が検索にはある、ということを
      言いたかっただけなのです。

      けれども、ぼくの感覚の中でも、
      知識獲得の深さを一様に進めよう、などとは
      考えていないし、
      きっと一様に「ならそう」としても、
      そうはならないものだと思います。

      知識獲得の質に、むらがある。

      しかも、獲得されたそれは揮発性である、
      ということがやっかいなものです。
      「ハイブリットに」っていうのは、
      「その二種類であるとして、それを組み合わせて」
      ということであったけれども、
      現実としては、どういう探索方法を行なおうと、
      「純粋な」計算機的探索方法ではありえない、
      とは思います。


      ぼくには、前々から抱いている疑問があって、
      よくあなたは、「身体的」という。
      あなたのいう、「身体的な」というのは、
      どういうことでしょう。
      たとえば、ある特定の微分方程式の一般解を
      求めていく、ということは、どのような場合において
      身体的であるのでしょう。
      これは例として適切で無いかもしれません。
      その場合は、他の例でもいい、例でなくて、抽象化
      したものでもよいのだけれど、
      身体性のともなった知識とはどのようなものなのか、
      ということ。
      これを知りたいです。
      身体的知識とは、すでに僕らが「得ている」
      ものなのでしょうか…。


      ぼくは、決して知識の獲得を行いたいのでは
      ないのだと思います。

      問題は、きっと知識獲得ではなく、
      現実を評価すること。
      あるいは、「仮想」を評価することでも良いけれども。
      評価して、問題を抽出して、それを解決する。
      それができるのならば、ぼくは一応、「論理的である」
      という評価を自分にくだすことができるし、
      それは価値だと思います。

      ぼくの問題点は、現実の問題解決が一切できていない、
      ということですから。


      戦争、といったのは、極端だったかもしれない。
      けれども、どんな現実的問題においても、
      勝利条件を設定し、それに対する用兵方法を
      考える、ということは、必須です。

      戦争は、なぜ起こるのでしょうか。
      それは、歴史的経緯において、
      交渉上、「譲れないもの」があるからこそ
      起こる、つまりコミュニケーションの最終的手段
      であるといえます。

      相手が納得できる方法、政治的に解決できる方法、
      人がなるべく死なない方法、なにより、
      生き残る方法。
      そんなものを考えたいと思うだけなのです。
      むしろ、意味があるのなら、最前線で考えてもよい、
      と思っていますし、
      自分で出て行ってもいいと思うのです。

      しかし、戦争を用いた理由としてはこれは本質的ではない。
      昨日ぼくがこれを書く前に考えていたのは、
      「ぼくは用兵をするに十分な人間たり得ていない」
      ということでした。
      それは
      「補給路や、自分の行ったことの影響を含めた計画」
      ができていない、ということ。
      それはまた
      「現実のなかで自分を運用することができていない」
      という感覚にほかなりません。
      つまり、このままでは現実世界を
      生き抜けないだろう、と。
      組織運営なんてもってのほか。ということ。

      戦争をして、自分は勝ちに導けるか、という命題が、
      ぼくにとっていまのところ、最もわかりやすい。
      だから、この喩えを使ったのです。

      しかし、文脈として
      これらが全く通じなくなっていたのは、
      頭のなかで考えたことが説明できていないからに
      ほかならず、
      あーあ、とは思っています。
      ひどいなぁ。


      ところで、なぜこのような文章を書いたかというと、
      「必死になれている」という感覚が
      全く持てなかったからである、というのが
      正直なところです。

      自分自身に発破をかけ、
      ぼくはこのような方向でいきてゆきたいはずなのだ、と
      砲塔の方向性を描き、
      適当に爆発したかっただけなのだろうなぁ、
      というのが、一晩立って思っていることです。


      最後に、書いておきます。
      基本的スタンスとして、ぼくは「楽がしたい」です。
      いまは、楽に生きています。
      そこそこ苦しみながらも。

      昔は、必死になるために、必死になっていました。
      目的を忘れて、暴力の波に溺れながら、
      何のためかわからず、
      ただ、モノゴトをこなしたということを
      人に見せるためだけに、
      意味もなく必死になっていました。
      そう、ハリボテとしての必死さ。

      いま、自分が「必死にならなければならない」と
      考えているのは、それとは少し意味が違って、
      ちゃんと、自分の力になるために、
      という意味があります。
      どのような力か、というのはまだわからない
      けれども、人生ではじめて、頭を動かし始めている
      という気がします。

      力をつける、というのは、「余裕をもつ」ということに
      ほかなりません。
      「余裕を持つ」というのは、もし何かコトが
      起こった時には、全力でやれば対処できる、
      という自信を持てる、ということが
      きっとそれにつながる。
      だから、いまやらねばならない。
      けれどできない。
      きっとできる。
      そんなせめぎあい。

      そうそう、ぼくの中で「楽しむ」は
      「楽をする」と「同義」なのです。
      だから、そのための努力であれば、
      「楽をする」につながるのかなぁ、と
      思っています。
      だって、苦しむことは、嫌いだもの。

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  2. ちょっと最後のは違うぞ、と言う感覚があった。

    「楽がしたい」のではなくて、「苦しみたくない」
    とすると、とってもハマる気がした。
    おそらく、その通り。
    「苦行」でありたくないのでしょう、いろいろなことが。

    それと、ぼくのために、頭と時間的リソースを
    割いてくれたカナさんには、本当にありがたいなぁ、と
    思っています。
    それを伝え忘れました。ありがとう。

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  3. コメントに対する返信、遅くなりまして申し訳ありません。
    一つ一つ、ゆっくりと返していきたいと思います。

    >ぼくには、前々から抱いている疑問があって、
    >よくあなたは、「身体的」という。
    >あなたのいう、「身体的な」というのは、
    >どういうことでしょう。

    この問いに対する最も誠実な答えは、
    「そんな疑問がでないようになったことが、身体的知識の獲得である」です。
    身体的なものは、ことばにすることは困難です。
    一部の文章を書くプロが、
    かろうじて実現できるものでしょう。
    「これこれこういうものが身体的である」
    と言った瞬間に、それは身体的理解たり得ない。
    はっきりと言ってしまえば、
    「身体的ってどんなものでしょう?」
    と、問うこと自体が、「身体的」に考えていないことです。

    言われた瞬間、もしくは分かった瞬間、自分の内から生まれた瞬間に
    「ああ、なるほど」
    と実感がわくことが、「身体的」と言えます。
    だから、「私たちは身体的知識を得ているのでしょうか?」
    と問うということは、その「実感」がないのでしょうから、
    おそらく身についていないんじゃないでしょうか?

    ・・・・いじわるですかね?
    でもですね。ことばで表すのは、野暮なのですよ。
    精一杯の、答えが上に書いたものです。
    だって、「うんうん、確かにそういう感じってあるよね」
    としか共有できない代物だからです。

    ですから、一番誠実な答えは
    「なんだかわからないけれども、実感があるもの」
    であることは、心に留め置いてください。
    本来、それ以上「言いようがないもの」です。

    ただ、それじゃああまりにも、あんまりです。
    野暮であり、蛇足になることを覚悟して、なんとか説明を試みたいと思います。

    「身体的」とはどんなものかは、ことばにはできませんが、
    身体的なものを感じられる、いくつかの例を挙げることはできます。
    微分方程式にはなじみがないので、
    いいお答えができるかわかりませんが…

    例を三つあげます。

    一つ目。
    例えば、九九の計算は、
    「1がいくつあって…」
    などと考えなくても、
    「2×4=8」
    のように出てくるものです。
    これは、習慣化された知識ですね。
    微分方程式の解く場面だと…
    微分の結果や、積分の結果をいちいち考えずとも出る状態でしょうか?
    身体の中にショートカットができている状態。
    これも、一種の身体性だと言っていいでしょう。

    二つ目。
    計算をしている間に、
    貴方は紙とペンを用いていると思います。
    電卓でもいいですが、
    目を使って、手を使って、
    外部化したものをまた内部化して…、
    という過程を経て、
    微分方程式を解いています。
    頭で考えている、というよりも
    「身体を通して考えている」といえ、
    そのような身体の使い方を学んだ結果は、
    身体的と言えると思います。
    「なんか気持ち悪いなぁ」
    「ここが気になるなぁ」
    と、頭で考えるよりも先に身体が感じるようになっていれば、
    身体的習得になっていると思います。
    ここまでくれば、あと一歩。

    最後の例が一番大事。
    身体的な知識は、他のものに応用がきく。
    そんなときって、ありませんかね?
    微分方程式の解の出し方が、
    他のものに応用できる場合です。
    本の読み方でもいいですし、
    写真を撮るときでもいいですが、
    物事の捉え方の尺度として、
    微分方程式の解き方が使われる。
    まったく別のものなはずなのに、
    その考え方が知らず知らずのうちに
    適用されている。

    三番目の身体性が、前回のコメントで私が
    <知恵>と呼んだものに一番近いでしょう。
    概念としての微分方程式がいくら解けても、
    物事の捉え方に影響を及ぼさなければ、
    その知識は知恵にはなっていないと、
    私は考えるからです。
    もしかしたら、ご友人のおっしゃっていた、
    「深く」ってこういうことでしょうか?

    以上が、今ぱっと思いつく
    微分方程式を解くときの「身体化された知識」の例です。

    ふう。野暮なことをしたなぁ…。


    返信削除
  4. >ぼくは、決して知識の獲得を行いたいのでは
    >ないのだと思います。
    >問題は、きっと知識獲得ではなく、
    >現実を評価すること。
    >あるいは、「仮想」を評価することでも良いけれども。

    すいません。いきなりすぎてよくわかりませんでした。
    評価、ということばが出てきましたね。
    もとのお題は、「興味の方向性」、「知ることの方向性」、
    だったと思います。
    うーん、
    「広く浅く」評価することや、
    「狭く深く」評価することって、
    なんでしょう?
    評価項目の数?
    「深く」評価するって、
    恋人選びの、
    「外見も大事だけど、やっぱり内面も大事だよね!」
    というあれですかね(笑)?

    >評価して、問題を抽出して、それを解決する。
    >それができるのならば、ぼくは一応、「論理的である」
    >という評価を自分にくだすことができるし、
    >それは価値だと思います。

    「論理的」と「価値」ということばも出てきました。
    ふむ。

    >ぼくの問題点は、現実の問題解決が一切できていない、
    >ということですから。

    ああ、なるほど。
    探求が「広かろうが」「深かろうが」
    あまり問題ではなく、
    「論理的」であろうが「価値」があろうが、
    本質ではなく、
    実は、自分が何も問題を解決しているようには、
    思えないことが重要な問題である、と。

    「価値」がなければ生きていけない。
    そんなことあるんでしょうか?
    貴方はここに存在し、
    思い悩みながらも生きている。
    それだけで、何よりだと、
    私は思います。

    「論理的」とか「価値」のお話は、
    申し訳ありませんが、正直、“まなび”とのつながりが、
    分かりませんでした。
    もし、まだ何か言い足りないことが見つかったら、
    コメントで教えてください。

    >戦争、といったのは、極端だったかもしれない。
    >けれども、どんな現実的問題においても、
    >勝利条件を設定し、それに対する用兵方法を
    >考える、ということは、必須です。

    うんうん。そうですね。問題があったときに、
    「どこが目指すべき到達点か?」
    を考え、そこに至る過程を考えることは、
    とっても大事です。

    >しかし、戦争を用いた理由としてはこれは本質的ではない。
    >昨日ぼくがこれを書く前に考えていたのは、
    >「ぼくは用兵をするに十分な人間たり得ていない」
    >ということでした。
    >つまり、このままでは現実世界を
    >生き抜けないだろう、と。
    >組織運営なんてもってのほか。ということ。

    ふむふむ。

    >戦争をして、自分は勝ちに導けるか、という命題が、
    >ぼくにとっていまのところ、最もわかりやすい。
    >だから、この喩えを使ったのです。

    なるほど。
    現状を、「戦争」に喩えたのですね。
    その場合、「敵」を明示しないと、
    ドン・キホーテになってしまいますね。
    というよりも、
    「俺に言わせれば・・・!」
    って飲み屋でくだを巻くオジサマでしょうかね。
    「敵」がいるとすればなんでしょうか?
    そもそも、「敵」なんているんでしょうかね?

    >ところで、なぜこのような文章を書いたかというと、
    >「必死になれている」という感覚が
    >全く持てなかったからである、というのが
    >正直なところです。
    >自分自身に発破をかけ、
    >ぼくはこのような方向でいきてゆきたいはずなのだ、と
    >砲塔の方向性を描き、
    >適当に爆発したかっただけなのだろうなぁ、
    >というのが、一晩立って思っていることです。

    そうですね。
    私も、もっとはっきりと、
    こう書けばよかったかもしれません。

    うだうだ考えているのも、
    十分に、生きていることだ。
    価値あることだ。
    なにも、間違っていない。
    価値をそんなものではかる奴に、
    ゴマをする必要はない。

    だから、
    “戦略的”とか“効率的”なんて、
    考えると萎えるモノを、
    頭に持ってくる必要はない。
    それは、後でついてくる。
    そんなものでごまかすことはない。
    (それを考えることが三度の飯よりも好きならば、
    追求しなさい。その場合は、間違っていない)

    ぶつかりなさい。
    非効率であろうと、
    非戦略的であろうと、
    自分が「これしかないんだ」、
    もしくは「どうしてもやってしまうんだ」
    というものに、
    ぶつかりなさい。

    そのときに、
    誰かを使って楽をしてはいけない。
    誰かを使うなら、
    誰かを使うことに命をかけなさい。
    誰かを使うことに、ぶつかりなさい。
    用兵を望むというなら、
    いや、私は別に最前線に出てもいいと思う、などと、
    ふぬけたことをぬかさずに、
    ただひたすらに用兵についてぶつかりなさい。
    「私は最前線で戦う人間ではないのです」
    「ですが、用兵することはできます」
    「用兵がしたいのです」
    「最前線に進むあなたたちの命を、なんとか生き延びさせる術を、提案できます」
    「それに、命をかけます」
    それを、誇りにしなさい。
    自分を命がけで動かしてくれる兵は、
    自然にあなたに集まるでしょう。
    用兵に必死にならないのであれば、
    兵も、使われる人を選ぶことでしょう。

    私の敵はなんだろうか?
    敵と争わずにすむ方法はないのだろうか?
    兵を用いるとは、どういうことか?
    本質を常に見つめなさい。
    “戦略的”とか“効率的”とか“広い”とか“深い”とか、
    そんなことばで飾る前に、
    考えることに、誇りをもちなさい。

    あなたは、きちんと存在している。
    あなたは、きちんと考えている。

    もう一度、ここで書きます。

    “生きる。
    知りたいことを学ぶ。
    学んだことを実践する。
    足りなかったところは素直に聞く。

    生きて、ぶつかって。

    学ぶことに必要なのは、
    それだけでしょう。”

    >いま、自分が「必死にならなければならない」と
    >考えているのは、それとは少し意味が違って、
    >ちゃんと、自分の力になるために、
    >という意味があります。
    >どのような力か、というのはまだわからない
    >けれども、人生ではじめて、頭を動かし始めている
    >力をつける、というのは、「余裕をもつ」ということに
    >ほかなりません。

    私も、いま、その境地です。
    人生で初めて「勉強しているなぁ」と思っています。
    動機を他人に預けたままでした。
    生きている理由も、他人に預けたままでした。
    いっぱいいっぱい、たくさんの人に贈り物をもらっているだけでした。
    今も、贈り物をもらいっぱなしです。
    でも、これからは、贈る側に、
    少しでも誰かに何かを贈る側に、
    静かに、ひっそりと善いことができるような人間に、
    なりたいと思って、転がっています。

    >「楽がしたい」のではなくて、「苦しみたくない」
    >とすると、とってもハマる気がした。
    >おそらく、その通り。
    >「苦行」でありたくないのでしょう、いろいろなことが。

    そうですね。
    「何かをなした人間は、すべからく苦しいことに耐えてきた」
    「だから、何かをなすためには苦しまなくてはいけない」
    「だから、あなたもまず苦しいものをやりなさい」
    これは、僕も違うと思います。

    でも「楽」がしたいとか「楽しいものがいい」というのも、
    最近違うように思ってきました。
    それって、キレイなものを求めているだけだと思ったのです。

    多分、最近はやってきた「クリエイティブ」という病も、
    同じ起源でしょう。
    キレイなままでいたい。
    キレイなものは、「気持ちがいい」。

    美しいものは、キレイとは違います。
    美しいものは、生命が喚起するものです。
    汚いものも、いっぱいあるはず。
    その中に、苦しいものも、楽しいものも含まれています。
    「楽しいことがしたい」も「苦しいことがしたくない」も、
    ただ、物事をキレイに納めたい欲求だと、思います。
    生きるって、きっとドロドロしている。
    「楽」とか「苦」とかだけでなく、
    魂が奮えるもの、歓ぶものを、私は、感じていきたい。


    ご返信、ありがとうございました。
    コメントを拝読して、
    コメントを書いていく中で、
    私も、自分を見つめなおすことができました。

    どうにも説教臭いですね。
    御察しの通り、私自身への叱責を、
    つらつらと書いていました。

    私も、いつまでたってもほかの人に
    「なにかをなしなさい」
    と言える人間ではないですが、

    >砲塔の方向性を描き、
    >適当に爆発したかっただけなのだろうなぁ、
    >というのが、一晩立って思っていることです。

    その砲塔の方向性が、
    間違っていないよ、と伝えたかった。
    適当に爆発した砲弾のかけらを、
    拾った身としては、
    今度は、ちゃんと推進力をもたせるように、
    と願いを込めて渡したかった。

    もし、何か気づいた点、思ったことがあれば、遠慮なく書いてください。

    カナ

    参考になれば:

    ・アウトサイダー (上・下) コリン・ウィルソン 中公文庫
    ・自分の中に毒を持て 岡本太郎 青春文庫
    ・大人のいない国 内田樹・鷲田清一 文春文庫
    ・『夢と狂気の王国』 砂田麻美監督 公開中

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  5. 訂正

    自分を命がけで動かしてくれる「人に」兵は、
    自然にあなたに集まるでしょう。

    返信削除
  6. 本当に、多岐にわたる、ひとつの議論をありがとう。
    ちょっと、言葉が丁寧ではなくて、独白のようになってしまうけれども、お許し下さい。

    ・命をかけること
    ぼくは、何かに命をかけよう、という風にまだ思えていないのだと思う。
    ぼくにとって、命を掛けている行為ってきっと、とっても純粋に、一つのことだけを為している姿、として捉えられている。効率性云々、という話ではないけれど、しかし、結果的に効率化されてしまっている、というそういう姿。
    なにものかに、ただひとつ、それ以外脇目もふらず、睡眠することも、食事を摂ることもわすれて。そういう、没入感を、ちゃんと得ることが、僕にできるだろうか。と悩んでいる。

    ・現実を評価すること
    知恵と知識、というコトバがあった。身体化された知識、というのもあった。
    これらは、きっと「評価すること」つながるのだろうな、という感覚だった。
    つまり、自分が行動するための選択肢を広げたり、消したり、つなげたりするもの。
    現実を評価するためには、一回自分の中で咀嚼して、抽象化して、というプロセスが必要になる。きっと、そういうことなのだろう、と想像した。

    ・論理的であることが価値であるということ。
    これは、一般論ではなかったのかな、と思う。自分の中でこうである、という話か。
    論理的である、というのは、自分が論理的でないなぁ、という前提と、
    (学問を行う上では)論理的である必要がある、ということから出てきたコトバ。
    学問という社会に、きっと認められたいんじゃないか。
    ともかく、自分の中でちゃんと議論できる材料がないことが問題で、論理の積み上げを行うことが、いま自分に必要だと考えられるということ。

    ・苦しみについて
    そもそも、僕は苦しんできた。たぶん、わけもなく。
    たとえば、競争相手が勝手に設定されいて、
    その相手に勝てないと暴力の恐怖に怯える、とか。
    そこに、まったく喜びはない。
    僕は苦しみを苦しみと思わないようになりたいのか。
    それとも苦しんでいるところから抜けだしたという快感を体感しつづけたいのか。
    それは、何度か体感したことがあるけれど。
    そういう疑問を抱えている。

    ・「戦争」をつかったことと、用兵について。
    戦争って、誰かに命じられてするもの、という印象がありました。
    だから、どこに行くか自分で決められるわけではなく。
    ただ仮想的に、誰か敵のある戦争で、状況を把握して、きちんと勝つために最善の努力ができる人間になっているならば、ぼくはちゃんと自分の満足できる方向にいきているんだろうなぁ、ということをおもったのです。きっと。
    自分の制御ができる。システムが制御できる。いろいろな情報を統合して、はじめての経験でも、尤もらしい解が導き出せる。
    問題は、言われた通りのところにあって、コメントで書いた云々はちょっとちがうなぁ、とも思った。
    ちょっとずれているし、きっと「責任が取れる自分でない」ことに対しての、文章だった。
    振り返ることができて、よかった。

    ・人間のしていること
    人間は、自分に認識できる「構造」を綺麗だ、と思い、それをいろいろなところから抽出してきます。
    それを抽象化というのであって、おそらく汚い構造は「理想的ではない」と捨て置かれます。
    Ideaだけでまとまらないので、これについては今度別に書きます。


    言葉に打たれる体験をした。
    全然、応えられていない気がするけれど、ごめん、いろいろ精一杯です。

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  7. O.coloさん

    早速の返信、ありがとうございます。取り急ぎ、一点だけ。

    ・命をかけること
    >なにものかに、ただひとつ、それ以外脇目もふらず、睡眠することも、食事を摂ることもわすれて。そういう、没入感を、ちゃんと得ることが、僕にできるだろうか。と悩んでいる。

    命をかけるということは、命を消費することとは真逆の態度だと、私は思っています。よくある偉人や偉業を成し遂げた人の「睡眠もおろそかで、食事もろくにとらず」という記述に私たちは感じいってしまう。「何かをなすにはそれぐらいの覚悟があるのだろう」。しかし、その感動を裏返せば、「それができないうちは私には何もなせないのだろう」というあきらめる理由につながる。

    断食修行や即身成仏でもない限り、苦行が偉業につながることはない。”それ”を「目指す」のは、貴方が言っていた「必死になるため」に「必死になっている」ことではないでしょうか?

    命をかけるということは、自分の命をないがしろにすることではありません。身体が発する微弱な信号、違和感、気持ちの良さを丁寧に拾うことです。自らの命が一番力を発揮できる状況を作り上げていくことも、命をかけることです。私も、ともすれば「ご飯すらいとわない状況が没入であり、それが命をかけることである!」なんて思いがちです。でも、それは「手持ちのリソースが尽きて、もうどうしようもなくしょうがない状態」に他なりません。燃料が尽きているけど、上空3000メートルに留まらなければいけないときに、自らの身体を壊しながら飛んでいるのと同じです。

    戦後世代三世の私たちですら、まだ戦時中の一億玉砕キャンペーンを、引きずっているのですね~。こわやこわや。くわばらくわばら。

    もう一個。私もどうにも「運命的な出会い」に毒されているように思っています。パウロの回心じゃない限り、「はっ」と何かに気づいて、没入していくなんてことはそうそう起こらないようです。多分、「なんとなくやってみたら、やめられなくなってしまった」ぐらいが適当でしょう。伝記やインタビューなんかで足跡をたどると時間的なものが圧縮されてしまうので、よく誤解しがちですが、没頭する領域に達するまでに人は時間をかけざるを得ない。いきなり上空3000メートルには到達できんのです。ロケットのようにあっという間に行ってしまう人を、人は天才と呼ぶのでしょう。

    確かに、責任を取らないでだらだら過ごそうというのは、命をかけることにはなりません。が、自分のリソースを最大限に生かせない人間が、他人のリソースを最大限に生かせないでしょう。まずは、自分の身体の信号をキャッチして、健康に気を付けてくださいな。

    いろいろと忙しい時期だと思います。もしまた何か気づいたことがあれば、書き足していってください。

    私も折をみて、コメントを返していきたいと思います。

    カナ

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