2013年12月19日木曜日

交換の可能性

人間があるものに価値を感じるようなシステムにおいては、
交換が不可能なところがあるのではないか。
と仮説した。
今回はこの問について考えてみたい。

車は、次のような3要素を持つという。
走る、止まる、曲がる、ということだ。
これらの要素なしには、
車は価値の無いものになってしまう。


走る、止まる、曲がる、は輸送機能を前提としている。
つまり、十分な荷重を引き受ける能力が
あることも重要である。

つまり、「車」という存在にとっては、
・輸送物を載せるための構造
・加速器
・減速機
・方向変換機
が必要で、それが車にとっての
「価値」であるというわけだ。
もちろん、下の3つは加速度変化に関わるものであるから、
法律などを無視して構わないのであれば、
一つの構造で足りるかもしれない。
名前として「車輪」がついていないと
車と呼ばないかもしれないけれども。

話題がそれた気がする。
現実の車においては、
これらの機能はもちろん搭載されており、
加速にはエンジン、減速にはブレーキ、
方向の変換にはハンドルが載せられている。
また、輸送物を載せるための構造も、
荷台にしろ、客席にしろ確保されている。

これらの構造は、どんな改造(部品交換)を
加えられても変わることはない。
車が価値を失うことになるからだ。
つまり、「車」とはその「機能」に価値を依拠しており、
その機能を失うわけには行かないのである。

量産できるものの代表格である「車」では、
「機能」は喪失不能、だけれども機能を
保たせる部品は交換可能であった。
では、量産が難しい、あるいはできないものでは
部品は交換可能だろうか。

たとえば、ヴァイオリンにおいては、
弦は機能を保たせたまま交換可能な部分であるけれども、
表板、裏板、と言った「ひびきを生み出す構成部品」は
交換可能な部分ではない。
これは、工業製品でないヴァイオリンに言える話である。
とくにNamedな楽器、たとえばストラディバリウスや
ガルネリといったものでは、そうだろう。
ストラディバリウスに変更を加えていって、
どこまで行ったらストラディバリウスではなくなるか。
それは、音、ひびき、という機能を失った点だろう。
その点で、ひびきを生み出すための構成部品は、
交換不能と言える。
ほかのものでも、「その価値の根幹に関わる部品」や
「サブシステム」は存在し、その部分は
「交換可能でない」のではなかろうか。
価値、アイデンティティを失う交換は、
「意味をなさない」ものとなる。

人間は、どこまで交換可能か、という問いを
見たことがある。
攻殻機動隊における「ゴースト」の問いも、
その一つではないだろうか。
アイデンティティにかかわるような部品は、
交換不能であるわけだ。
車のアイデンティティは、輸送能力と加速という機能で、
ヴァイオリンのアイデンティティは音のひびきである。


ぼくは、「量産」の社会がどこからか、
「個別化」の社会に向かうと考えている。
モノが流通しきった後に価値になるのは、
「それぞれが使いやすい」といった
「個」に訴えることだからである。
また、新たに「もの」を行き渡らせる戦略も、
まだまだ通用するし、量産のやり方を
応用できるけれども、それは「過渡的」に
なってしまいがちではないか、と思う。
「あなたにあったものを、長く」という、
実は昔ながらあるやり方が復活するとすれば、
「交換不能」な部分が増えていくのではないかな。

交換可能性、ということを担保しながら、
量産もするには、「モジュール化」ということが
過渡現象としておこるだろう。
つまり、パーツにバラしてしまって、
カスタマイズしやすくする、っていうこと。
経済的な問題と、高付加価値の接点が、
交換可能性の見極めどころだと思う。
もしかしたら、「交換」じゃなくて
「加工」の可能性になるかも。
3Dプリンタのような製品はその一助になるだろう。

組織においては、その組織の「色」を
作るような人がいることがある。
そんな人は、組織において交換不能な
部品ではないかと思う。
その組織にその人がいる、ということが、
アイデンティティを形成するならば、である。
交換不能部品をどのように交換するか、
ということは組織にとって一大テーマだろう。
アイデンティティが変わらざるを得ない時が、
いつかは来るからである。

今回はこのへんにして、また考えてみたい。
いずれ、制御の可能性、というところにも、
踏み込んでみたい。

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