2011年8月10日水曜日

科学的とはどういう意味か

僕の人生とか、その考え方に、森博嗣先生は深く入り込んできている。
もともとは、吉祥寺のミステリィ専門のお店で、森博嗣好きの人に出会ったのがきっかけだった。

それから、高校時代に、図書館で森博嗣を読みあさり、まあ色々衝撃を受けたが、『すべてがFになる』には特に衝撃を受けた。
また、blogを集めた本である、『森博嗣の浮遊研究室』だったりだとか、『MORI LOG ACADEMY』などを読んで、楽しんでいた。
工学部とはどういうところだかいまだに分からないけれど、面白そうなところだな、とは思う。


そんな森先生の書いた新書、『科学的とはどういう意味か』



科学的とはどういう意味か (幻冬舎新書)


ラベルに「書評」なんて書いてあるが、僕はいろいろな先生方の評価なんてものをする気はないし、たぶん森先生も、amazonの売れ行きによって客観的に自己評価をしているだろうから、まあ、この本について語ろうと思う。

最近、科学を伝える、だとか教育だとかに触れる機会がよくある。
特に、iGEMなんてことをやっていると、となりのチームのことまで知っていて、しゃべる、なんてことがままある(日本のチームは仲が良いのだ)。
その時にも考えることだが、自分の専門知識を(専門と言えるほどではないのだが)、いかに普遍化してしゃべるのか、ということが重要になってくる。

そういえば、iGEMの一環で、アンケート調査をして、「遺伝子組換えについて抱くイメージ」や、「遺伝子工学の研究活動に対しての一般的な意見」を聴取したことがある。
その詳細についてはiGEM KYOTO 2010のページや他のアンケート参加チーム(UT-Tokyo)のページに譲るが、人々が、「人間の体内で、食べた生物の遺伝子が(消化されることなく、あるいは消化されずに、されても)人間に影響を及ぼす」だろうと考えていることがわかった。
「実験して時が経たないとわからないでしょう?」といわれるのだが、いんげん豆をたべてインゲン様になった人間がいただろうか。
遺伝子とは何か、どういう性質をもって、何を作り、さらにそれが何をするのか、知る必要があるということを感じたりする。


特殊な例で恐縮だが、少なくとも僕の周りでは、科学を知る人と知らない人とでは、物の見方に差があるという経験則がある。
たとえ文系といわれる人であっても、科学を「知っている」というだけで、あたりまえに危険なことはやらなくなるものだ。
一般的にも、おそらくそうだろうと思う。
確かめてはいないものの。


最近、多くの電気製品は、ブラックボックス化されている。
企業は、もうちょっと仕様を公開してくれれば、あるいは説明書はもっと薄くて済むのではなないか、そう思う。
分解したところで、このチップは何をやっているのか、みたいなことは想像しかできないしね。
そこも読んでしまう人もいるのだろうが…

まあともかく、オブジェクト的な思考はちょっといやだな、と個人的には思う。
入力と出力関係のリストだけが与えられるようなそんなものは…
宇宙研も自前で作ってたわけですしね。
リアクションホイールという、外注のものが、故障したときにブラックボックスで大変だったのだった。


この本によって科学的であるということが結構、明確になった。
これを読んでもらえれば、危険について(だけでなくていろんなことを)自ら考え、行動する、そんな人になるために、ちょっとは考えれる人になるかも知れない。
少なくとも、子供にはそうあってほしい。まだいないけど。


明確でないのは、宗教について。
宗教がよくわからないので、まだこれについては僕は触れられない。

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